第1111話・もう昨日へ帰ろうか
『牙』の寮の大浴場(女湯)で女性陣に囲まれた俺は……。
気がつくと大浴場の前のベンチで横になっていた。
「ああ、目を開けた。よかったわ、瀬戸君!」と、しゃがんで俺に向け団扇を扇いでくれていた速見先生や佐倉先生が喜びの表情を見せる。
「腹上死みたいにならなくてよかったわね」と、レンジリー先生は半ば楽しそうに言った。こんな時に信じられないジョークだ……。
「のぼせたみたいですね」と、深空ちゃん。
「そ、そうみたいだな……。前後の記憶が曖昧で、よく憶えていないや」と、俺は上体を起こして言った。
風呂の中で女性たちに囲まれた俺は、彼女たちの誘うままボディータッチ、口づけ、抱き締め、愛撫……と、たとえ『この世界』の美咲たちにも言えないことを次から次にして……しかし、最後はのぼせて意識を失いかけ、タイルの上に倒れ込んでしまったのだ。
前後の記憶が曖昧とは言ったが、倒れるちょっと前まではハッキリと思い出すことができる。
思い出すだけでまた頭がクラクラしてくるような濃密でいやらしい時間だった。
深空ちゃんの隣に座っていた二宮が水の入ったコップを渡してくれる。
「も、もっと水を飲んだ方がいいですよ、どうぞ」
「おお……今は優しいんだな、二宮」と俺がコップを受け取って言うと、彼女は顔を赤くした。
「あなたが死んだら、美咲先輩や雛季ちゃん、桜川さんたちに迷惑が掛かるからです! それに、水を用意してくれたのは月形さんですから!」
「ああ、そうなの……。ありがとう、月形さんも」
「その前に、先生たちが君に水をあげたのよ? 憶えてない?」と、月形さんは怪しげに微笑んだ。
「そうよ。水分が必要だと思って、順番に口移しであげたわ。それはもう、走り回った後のワンちゃんみたいにゴクゴク飲んだわよ?」
レンジリー先生が笑いながら言い、速見先生や佐倉先生もやや照れた顔ながらもうなずいた。
「く、口移し……」
ああ、やはり『この世界』のこの6日目は……甘美で刺激的で破廉恥だが、それゆえに耽溺し我を忘れてしまう危うさ、欲望の底へと引きずり込もうとする粗暴な魔力を備えている。
だが、いつまでも『幻影の世界』に居られない。
俺は食堂でしばらく休憩した後、みんなとお別れをした。
大竹先生と共に寮の保健室にいるという佐倉先生と、彼女にしばらくつき合うという速見先生、このまま寮に泊まる二宮と深空ちゃんはもちろん、すぐに帰るという月形さんと水巻さん、レンジリー先生とも寮で別れた。
途中までレンジリー先生や月形さん、水巻さんと一緒に帰ると、道中にいる熱々のカップルに刺激され、また誘惑を受けるかもしれない(自惚れているわけではない)。そうなると何かと時間を取られてしまうから、ここは心を鬼にして早々に一人で辞去した方がいいだろう。
その判断は正しかった。
この6日目から起きた『変化』……その最後の一つを、見つけなくてはならない、と俺は通りを速足で、ただ行き過ぎる風景や人々の行動の違和感を見落とさないように冷静に、西へ向かった。
先ほどスルーした『神々の黄昏』内を一応確認しておくためだが、そこで思いのほか時間を使うことになった。
あのまま寮でもう少しダラダラと過ごしていたら、あっという間に夜も深くなっていただろう(特に『この世界』は日没がないし、腕時計もしていないのでどうしても時間にルーズになってしまう)。
結論から言えば、『神々の黄昏』内に『諸塚が坊主頭になっている』という一応保留している変化よりも確実と言えるほどの変化はなかった。
入場のシステム、トラブル時の対応のための写真撮影なども今まで通り……つまり『現実の世界』と変わりはなかった。
東西と中央の通りに建ち並ぶ店舗も見るからに変わっているということはなく、エリアの特色も変わっていないようだった。
もちろん、丸森のオッサンみたいにしょっちゅう訪れているわけでもないので、細かな変化に気づいていないだけかもしれないが(そうだったら、そもそもおしまいだ……)。
ただ、『神々』内でも当然のように『物々交換』が行われるため、客はお金の代替に魔溜石、『魔神具』、服やアクセサリーなどを払い、そのため通りを歩いている者も荷物を持った者が多かった。
店内も通りもいつも以上にうるさく感じたのは、『テレビ』や『ラジオ』を流している店が結構ある上、比較的静かなはずの西エリアの通りや林の中ではあちこちで『決闘』が行われ(酔客たちがイザコザを起こし、『決闘裁判』で決着をつけようという流れになるのだろう)騒々しかったからだ。
そして、『神々』内は他の場所以上に男女が入り乱れて軽い愛を交換し合っていた。
宿の周りにも小さなテントが幾つも張られ、そこからは嬌声や喘ぎが漏れ聞こえ、テントに入れない者はその周りに敷かれたレジャーシートの上で抱き合っているという具合だった。
宿もあがったりなのではないかと思ったが、ちゃっかり場所代を取っているようだった。
それにまぁ、この『幻影の世界』で経済を考えること自体が野暮なのかもしれない。経済的なことに限らず、これが『仮初の世界』でなければ、すべてが破綻している気がする。
とにかく、宿周辺を離れてもあちこちで男女の情事が見受けられ、特に多かったのはやはり西の林の中だ。そこは木、木、裸、裸、木、木、裸、裸……と言った具合だった。
そして抱き合う彼らの奥では『決闘』が行われている、異常な光景だ。
俺は彼らを横目に、北へ。
『神々の黄昏』の奥……『ゴブレット』の外壁寄りにある『闘技場』にも足を伸ばしたが、そこでも普通に『エイト剣』などでの剣士の闘いが行われていた。賭けも行われ、配当は金ではなく豪華賞品や『神々』内でのサービスらしい。
ここでも気になるほどの大きな『変化』、圧倒的な違和感はなく、俺は2試合だけ観て『闘技場』を後に。
そして同じ区画にある『競馬場』に行ったが、そこで魔獣レースのみ行われていた。魔獣ではない、馬やその他の動物を競わせることは『この世界』でのご法度だからだ。
一方、魔獣は退治されるべき敵であるのは『この世界』でも同じであり、レースにも使われるということだ。まぁ、それならバルーンドッグ(トラヒメ)もケルベロ・キャット(カンナたち)も魔獣の一種なのだが、ペット化した魔獣は他の動物と同じ扱いに昇格し、大切にしなくてはならないということなのか……。
そこもすぐに離れ、また南へ。
途中にあった公共の入浴施設へ入った。もちろんおかしなことがないかの確認のためで、混浴を愉しむためではない……。
中は脱衣所も一緒、男湯と女湯の区別もなくなっていて、その分広さ、洗い場や浴槽の数などは2倍。
そこに、遊び疲れた者やまだまだ遊び足りない者が一区切りのために、と言う感じで集まり、寛いでいた。
ここにもイチャつくカップルはいたし、男女の声の掛け合いもされていた。
俺も2組のお姉さんたちに声を掛けられたが、目的はそういうことではない。三助の如くその人たちの体を洗ってあげると、のぼせたという理由をつけて入浴施設を後にした。
他、腕を絡めてくる強引な女性の客引きに合って、幾つかのセクシーな店に立ち寄る羽目(?)になり、『神々の黄昏』を出た時にはすでにいつもの夕食の時間とも言える時刻になっていた。
ただ、お腹は空いていない。『神々の黄昏』内でパンやスープ、ポテトやサラダなどをちょこちょこつまんでいたから、充分に満たされていたのだ。
食欲も満たされ、なぜか色欲的な満足感もあったが、日中から暑い中歩き回って来た疲労感がプール帰りのバスの中のように急に襲い掛かって、何度か道端に座り込んでしまった(その横で、おっ始まることもあった)。
と言うわけで、この後向かう予定だった『ゴブレット』西エリアや南西エリアの探索を断念。琴浦家のある東エリア回りで『ビッグドーナツE』へ帰ることにした。
見慣れないホームページを閲覧しすぎた後のようなめまい感を伴いながら、俺は何とか自力で北東部エリアの東7ブロックにある琴浦家に辿り着いた。
ノックに反応して出て来たのは意外にも鮫川だった。彼は『この世界』でも律儀に琴浦家で寝泊まりしている。
しかし普通なら、鮫川という男が最初に顔を現すことは滅多にない。たとえ玄関の一番近くにあるソファーにふんぞり返っていたとしても、「この家の訪問者は、この家の者が迎えるべき」、「俺に関係のないことは要件も訊く必要もなし」と言う態度で、この家の者……つまり琴浦姉妹の両親や伯母さん夫婦に出させようとするのが鮫川という男だ。
しかし『この世界』の鮫川の性格にも若干『変化』が起きていることを、俺は鮫川の顔を見て思い出した。
「ああ、瀬戸か」と呟いた彼の顔は、『現実世界』の熊を主食にしてそうな彼が見せる凶暴な表情ではなく、瀉血され過ぎたようなどこか生気のない顔をしていたのだ。
「……そうか、お前は今、ほんの少しだけ他人を慮る気持ちが芽生えた『NEW鮫川』もしくは『鮫川・改』だったな」
『この世界』の最初の方の『変化』によって、彼の性格は少しまともになっていた。
一人納得する俺に、鮫川は顔を険しくする(あくまで、多少は穏やかな性格になっただけだ)。
「は? 何わけのわかんねぇこと言ってんだ?」
「いや、こっちの話だ。それより……姉妹の両親はどうした? 居ないのか?」
鮫川の容姿にも大した『変化』はない。剥き出しの胸や肩、腕の筋肉は嫌悪感を覚えるほど盛り上がっているが、それは今に始まったことではない。
以前よりも全体的にゴリラっぽい気が少しするけれど、その点も気のせいレベルだ。前から『ゴリラに似ている人』と言うよりは『人に似ているゴリラ』……それが鮫川という男だ。
その鮫川は、「いるさ」と応じた。
「夫婦の部屋だ。伯母さん夫婦も部屋に入っているな。夕食も風呂も終わって、することないから性交でもするらしい」
「せ、性こ……あまりハッキリ言うなよ……。ああ~、訊かなきゃよかったな……。ま、まぁ、いるならいいんだ。他に何か変わったことはないか?」
俺は『この世界』の住人であるこいつに訊いても意味はないと知りつつそんなこと言って、また室内を覗き見る。
しかし鮫川が何かを思い出したように一度、大きく息を吸ってから、俺の肩を掴んで、叫ぶように言う。
「それより、瀬戸!」
「な、何だよ? まさか、お前……変なことを誘うするつもりじゃ……」
「何の話だ? それより、1時間ほど前に琴浦姉妹たちがここに来たぞ。お前の帰りが遅いと言って、捜し回っているらしかったが?」
「な、なに? 美咲たちが? 確かに、遅くはなっているけど……マズいな」と、俺はうなじを掻く。
「わかった。できるだけ急いで帰るよ」
「待て。すぐに防具を身に着ける」と鮫川は言って、すぐに玄関奥の棚に置いていた自分の防具を身に着け始める。
「いやいや、何でお前まで?」
「姉妹や桜川やミュウって奴に頼まれたからな。もしお前が現れたら、途中まで送ってほしいんだと。まぁ確かに、こんな時間にお前みたいな弱い奴が一人で歩くのは危険だからな。待て、すぐ行ける」
「……なるほど。優しくなってるや、『NEW鮫川』。しかし、こんな時間と言っても暗くはならないからなぁ……俺一人で帰れるけど」と俺は困りつつも、鮫川の装備を待った。
そして、装備が終わった鮫川に護衛されながら東通りを越えた所まで来て、彼は「気をつけろよ? お前がゴロツキに殺されたら、姉妹たちに何を言われるかわかんねぇからなぁ」と言って、今来た道を引き返して行った。
「殺されるなんて、縁起悪ぃな……」と呟いてから、俺も鮫川の背に向かって「サンキュー」と手を振った。
『現実世界』で彼が俺の心配や琴浦姉妹たちの未来を気に掛けてくれることなどないから、彼に感謝するのも何か照れる……。
今日こそは『現実世界』に戻るつもりだが(実際はまず前日に戻るだけ)、鮫川だけはこの世界の鮫川を連れ帰りたいものだ。
一人になった俺は、『この世界(6日目)』も見納め……とばかりに、街中を見回しながらゆっくり歩いた。
夕食の時間となったこの時間からは、往来を行く者の姿は減り始める。いくら日が沈み切らず、いつまでも明るいとは言え、多くの人々はこの後眠るのだ。
夜中でも『現実世界』よりは出歩く人は多いかもしれないが、賑やかさを保つのは大通りや広場の辺りだけだろう。
と言うわけで、『ビッグドーナツ』への残りの帰り道ですれ違った若い女性も多くはなく、つまり裸を見ることも少なかった。道端などにはやはりカップルが堂々と愛を育んではいたが、それをまじまじ見学するわけにもいかない。
まだ混浴が当たり前となる『4日目の世界』も残っているし、俺はいよいよ『ビッグドーナツ』に帰ることにした。その女の花園にいる方が楽しいだろうし……。
その直後。
背後で俺を呼ぶ声がした。
「え? 今の声……池田さん? おおい、池田さん!」
振り返ると、馬の代わりに牛っぽい魔獣を利用した車の荷台から池田さんが顔を見せていたのだ。
手前には若い女性、奥にも若い女性が座っていて、何やら愉しんでいたようだ。
「どうだ、調子は?」と、池田さんは手前の女性の胸に顎を載せるような体勢のまま訊いてきた。
「ああ、池田さん! 待って! 話が!」
俺は急いで走り荷台の横につく。引っ張っているものが魔獣とは言え人に懐いた動物だからだろうか、運転手もムチを振るうことがないためスピードはそれほど出ていない。そのため走ればすぐに追いつくことができたのだ。
「待てって言っても……」
「何よ~、そっちから声掛けておいて、私たちを放って降りるつもり?」などと女性たちが横から言い、池田さんはだらしなく照れる。
「いや、そんなつもりは……。な、何だ、瀬戸君? 君、昨日に帰れなかったんだな? ってことは……」
「誤解をしていて、失敗しました! ただ、昨日……5日目の『変化』はもうわかりました!」と、俺は必死に並走しながら叫ぶ。
「じゃあ、今日のことか? 早く言ってくれ!」
「このまま? ハァハァ……停めてもらえないんスか?」
重力は軽くなっているから一跳びでもっと進む距離が伸びていいはずだが、やはり疲労のせいか体が重い(と言っても『現実世界』よりは軽いはずだが)。
「無理ですよ? お客さん。手綱を使って停めるのは降車の時だけと決まっています。こいつは魔獣だけど、ペット扱いですからね、大事にしなくちゃ」と、運転手が前にいる牛のような魔獣を見てから、俺に言った。
「そういうわけだ。早く言え! 教えられることなら教えるからさ!」と、池田さんも自分が走っているかの如く苦しそうな顔で応じる。
「わ、わかりました……。それでは、今日の『変化』について! 性にルーズ、みんな半裸、みんな菜食主義になっている! この点は間違いないですよね?」
「ああ、そうだな。昨日の話で言うところの『共通の変化』だな。残り二つは、『個人的な変化』だから、俺はわからないかも……」
「何の話?」と手前にいる女性が口を挟むが、俺は彼女越しに池田さんへ語りかける。
「一つはわかりました。友人同士の性格が入れ替わっているんです!」
「おお! 俺も『今日の変化』の一つは同じようなものだよ! よく飯屋で会う二人の性格が入れ替わっているってやつだ! それと、あと一つは……」
「どういうものですか? 参考のために教えてくだ……ぐわっ!」
「あ、瀬戸君?」
俺は道で横になっていた男の腰に躓いて転び、その男の横に寝転がっていた女性の豊かな胸へとダイブしてしまった。
柔らかい感触……そして「キャッ! 痛い!」と言う女性の叫びと、「おい、お前! 何の断りもなく人の女に抱きついてんじゃねぇ!」と言う男の怒声。
断りを入れればいいのか……と思いながらも俺は転がるように女性の上から退いて、カップルへ平謝り。
また立ち上がって振り返った時には、池田さんたちを乗せた牛車は追いつけなさそうなほど先を走っていた。
「瀬戸君~! あと一つは……」と、荷台から箱乗り状態になった池田さんが最後に叫んでいたが……。




