2話【好奇心は止められない】
ディネスは白い空間を足早に進み、一枚の扉の前で立ち止まった。
その向こうは、代行者オルディアが普段過ごしている場所だ。
「オルディア様、失礼しまーす!」
元気よく声をかけて扉を開けると、どこまでも続く暗闇が広がっていた。
壁も床も見当たらない。足を踏み入れた途端、上下の感覚が曖昧になり、体がふわりと浮き上がる。
「わわっ……!」
慌てて姿勢を整えようとするが、思った方向へ動けない。手足をばたつかせているうちに、近くに浮かんでいた管理画面へ額から突っ込んでしまった。
「いたっ!」
画面に弾かれ、体がくるりと半回転する。
「うぅ……何回来ても慣れないなぁ……」
額をさすりながら見回すと、暗闇には大小さまざまな半透明の画面が幾重にも浮かび、絶えず情報を映し出していた。ディネスたちの管理空間とは比べものにならない数だ。その淡い光だけが、周囲を照らしている。
「相変わらず、賑やかな入り方をするものだな」
落ち着いた声が響いた。
「オルディア様!」
ディネスが声の方へ向き直ると、暗闇の中心から穏やかな返事があった。
「うむ。怪我はないか?」
「大丈夫です! ちょっとぶつけただけなので!」
元気よく答えるディネスに、オルディアは少し呆れたようだった。
「そうか。それならよいが……お主も、そろそろこの場所での動き方を覚えたらどうだ?」
「それができたら苦労しませんよぉ……」
情けない声を漏らしながら、ディネスはどうにか体の向きを安定させた。
空間の中心には、脚を組んで静かに座る漆黒の存在がいた。
引き締まった黒い身体に、ゆったりとした白い下衣。顔の中央には赤く輝く一つの眼があり、背後からは白い眼を備えた無数の黒い腕が放射状に広がっている。
腕はゆっくりとうごめきながら、周囲の画面を次々と操作していた。
生命と循環を司る代行者、オルディア。
初めて目にする者なら恐れを抱いても不思議ではない姿だが、ディネスにとっては見慣れたものだった。
「それで、今日は何の用だ?」
オルディアの赤い眼がディネスへ向けられる。その間も、背後の腕は休むことなく動いていた。
「あっ、そうでした! 実はお願いがあって来たんです!」
「ほう。願いとな?」
ディネスは大きく頷いた。何から話そうか一瞬迷ったものの、すぐにオルディアをまっすぐ見つめる。
「私、一度でいいから地上に降りて、あの世界で暮らしてみたいんです!」
オルディアの赤い眼が、わずかに動いた。
「……地上で、暮らしたい?」
「はい! ずっと眺めているだけじゃなくて、自分でいろんなことを体験してみたいんです!」
ディネスの勢いとは対照的に、オルディアは落ち着いた様子で問い返した。
「ふむ……なぜ、そう思ったのだ?」
「だって、私たちはあの世界のことをたくさん知ってますけど、実際に暮らしたことはないじゃないですか」
ディネスは少し考え、言葉を続けた。
「どこに誰が住んでいて、どんな暮らしをしているのか。記録を見れば、いろんなことが分かります。でも……」
彼女は周囲に浮かぶ管理画面へ目を向けた。
「例えば、誰かが嬉しそうに笑っていても、その人がどんな気持ちなのか、私には想像することしかできません。毎日働いたり、誰かと一緒にご飯を食べたり、知らない場所へ出かけたり……そういう普通の暮らしが、どんなものなのか知りたいんです!」
話しているうちに、ディネスの声は少しずつ弾んでいった。
「だから、一度でいいから、私もあの世界で暮らしてみたいんです。眺めているだけじゃ分からないことを、自分で確かめてみたくて!」
オルディアは口を挟まず、彼女の話を聞いていた。
「なるほど。お主の言いたいことは分かった」
「じゃあ……!」
期待に目を輝かせるディネスへ、オルディアは静かに告げた。
「だが、許可はできぬ」
「……えっ?」
あまりにもあっさりと断られ、ディネスは目を丸くした。
「ど、どうして駄目なんですか!? ちょっと暮らしてみたいだけなんです! 向こうで問題を起こすつもりもありませんし!」
「問題を起こすつもりがなくとも、起きてしまうことはあるだろう」
ディネスは反論しかけたが、言葉が詰まった。
これまでにも、良かれと思って始めたことが騒ぎにつながり、セリオスに後始末を任せてしまったことがある。
そんな彼女の様子を見ながら、オルディアは言葉を続けた。
「お主の好奇心を否定するつもりはない。自ら管理する世界に興味を持つことは、決して悪いことではないからな」
ディネスは少しだけ顔を上げた。
「だが、我々には果たすべき役目がある。お主も、それは理解しているはずだ」
オルディアの背後では、いくつもの腕が記録を整理し、情報を切り替えている。こうして話している間も、世界の管理は止まらない。
「お主が地上へ降りれば、その間の仕事はどうする? 残されたセリオスに、すべて任せるつもりか?」
その名前を聞いた途端、ディネスの肩がぴくりと動いた。
つい先ほど、先輩に仕事を代わってもらおうとして断られたばかりだ。
「そ、それは……」
ディネスが言葉を濁すと、オルディアの赤い眼がじっとこちらを見つめた。
「……まさか、すでに頼んだのではあるまいな?」
ディネスは答えず、曖昧な笑みを浮かべた。
「まったく、お主という子は……」
「でも、先輩なら私の分の仕事が増えても、きっと大丈夫だと思うんですけど……」
セリオスが経験豊富で、仕事も早いのは事実だ。けれど、だからといって押しつけてよいわけではない。そのことはディネスにも分かっていた。
「セリオスならできるだろう。だが、あやつに余計な負担をかけてまで、お主を遊びに行かせるわけにはいかん」
「……はい」
正論を返され、ディネスはしょんぼりと肩を落とした。
オルディアは少し間を置き、別の問いを投げかけた。
「それに、お主は地上で暮らすと言ったな。どれほどの間、そこに留まるつもりなのだ?」
「えっと……」
ディネスは顎に指を当てた。
おいしいものを食べて、町を歩いて、できればほかの国にも行ってみたい。考えれば考えるほど、やりたいことが増えていく。
しばらく考えた末、ディネスは顔を上げた。
「……決めてません!」
元気よく答えると、オルディアはしばらく沈黙した。
「お主、それでよく許可を求めに来たものだな……」
「だ、だって! 行ってみないと、どのくらいかかるか分からないじゃないですか!」
ディネスは慌てて弁解したが、オルディアの態度は変わらなかった。
「だからこそ、許可できぬのだ。いつ戻るかも分からぬ者を、気軽に送り出すわけにはいかん」
その言葉には迷いがなかった。
「じゃあ……ちゃんと帰ってくる日を決めればいいですか?」
滞在期間が問題なら、先に決めればいい。そうすれば考え直してもらえるかもしれない。
しかし、オルディアは静かに首を振った。
「ディネス……期間だけの問題ではないのだ」
「でも、ほんの少しだけなら……」
食い下がるディネスに、オルディアは穏やかな声で答えた。
「お主の気持ちは分かっておる。だが、今は認められぬ」
背後の腕のいくつかが動きを止め、白い眼がディネスへ向けられた。
「使徒には使徒の役目がある。それを忘れてはならぬぞ」
「……はい」
ディネスは小さく頷いた。
仕事を放り出せば誰かに負担をかける。それに、使徒が地上で暮らすことには、自分が思う以上の問題があるのかもしれない。
頭では理解できる。それでも、諦めきれなかった。
「……失礼しました」
軽く頭を下げ、扉へ向かう。帰りは画面にぶつからないよう慎重に進んだ。
その小さな背中を、オルディアはしばらく見送っていた。
◇ ◇ ◇
扉を抜けると、見慣れた白い空間が広がっていた。
足元に確かな感覚が戻り、ディネスはほっと息をつく。
「戻ったか、ディネス」
セリオスがいくつもの管理画面を操作していた。羽毛に覆われた頭部の眼の一つが、こちらを向く。
「……ただいま、先輩」
「どうだった?」
セリオスは管理画面から視線を外さず、何気ない調子で尋ねた。
ディネスは答えに詰まり、気まずそうに視線を落とす。
「……駄目でした」
ディネスがしょんぼりと答えると、セリオスは手元の作業を一度止めた。
「だろうな」
「もう! ちょっとくらい残念がってくれてもいいじゃないですか!」
ディネスは頬を膨らませ、不満そうにセリオスを見上げた。
「私が何を残念がるというのだ。最初から許可が下りるとは思っていなかったぞ」
「むぅ……」
あまりにも当然のように言われ、ディネスはそれ以上言い返せなかった。
そんな彼女に、セリオスは一枚の管理画面を示した。
「それより、出かける前に確認していた記録が残っているだろう。続きを済ませておけ」
「……はーい」
ディネスは渋々席へ戻り、途中になっていた記録の確認を再開した。
各地の生物の動向や環境の変化を追い、必要な情報を整理していく。しばらくは真面目に作業を進めていたが、確認を終えた地域の記録を閉じようとしたとき、画面の隅に街道を進む馬車の一団が映った。
「……ん?」
思わず画面を拡大する。
緩やかな丘陵地帯を走る街道を、数台の馬車が連なって進んでいた。荷台には木箱や布袋が積まれ、馬車の脇を歩く者もいれば、御者台で楽しそうに話している者もいる。
「旅人さんたちかな?」
やがて先頭の馬車が道端に停まり、ほかの馬車もそれに続いた。
旅人たちは馬に水を与えたり、食料を取り出したりしている。どうやら休憩するようだ。
道端に腰を下ろした一行は、食事を分け合いながら談笑し始めた。
「へぇ……こんなふうに旅するんだ」
目的地までの距離も、道中の地形も、ディネスは知っている。けれど、何日もかけて道を進み、途中で食事をしたり、知らない町に立ち寄ったりするのは、どんな気分なのだろう。
想像しているうちに、自然と笑みが浮かんだ。
「……私も、ああいう旅をしてみたいなぁ」
思わず呟いたそのとき、背後から声がした。
「ずいぶん楽しそうだな」
「わっ!?」
振り向くと、いつの間にかセリオスが近くにいた。
「せ、先輩! 驚かせないでくださいよ!」
「何度か呼んだぞ。返事がなかったのでな」
ディネスは慌てて作業中の記録へ目を戻した。
「えっ、そうだったんですか……?」
気まずそうに笑う彼女をよそに、セリオスは旅人たちが映る画面を一瞥した。
「まだ地上へ行くことを考えているのか?」
「……はい」
ディネスは少し迷ってから頷いた。視線は自然と、画面に映る旅人たちへ戻っていく。
「さっきまでは町で暮らしてみたいって思ってたんです。でも、あの人たちを見てたら、旅をするのも楽しそうだなって」
「そうか」
セリオスが短く答えると、ディネスは少し身を乗り出した。
「先輩は、地上の暮らしって楽しそうだと思いませんか?」
セリオスは少し間を置いてから答えた。
「楽しいことばかりではないだろうな」
「それは分かってますけど……」
ディネスが口を尖らせると、セリオスは画面の中の街道を指し示した。
「旅に出れば、雨に降られることもあれば、食べ物に困ることもある。思い通りにならぬことの方が多いかもしれんぞ」
ディネスは考え込んだ。
危険に遭うことも、疲れて動けなくなることもあるだろう。旅人たちがいつも笑って過ごしているわけではないことも、知識としては理解している。
画面の中では、旅人の一人が仲間に水筒を手渡していた。受け取った相手が何かを言うと、二人は顔を見合わせて笑った。
「でも、それも自分で経験してみないと分からないですよね?」
セリオスはしばらく彼女を見ていた。
「……まったく、お前は」
それ以上何も言わず、自分の仕事へ戻っていく。
ディネスが再び画面に目を向けると、旅人たちは休憩を終え、馬車に乗り込んでいた。
やがて一行はゆっくりと動き出し、街道の先へ進んでいく。
「……やっぱり、行ってみたいなぁ」
名残惜しさを振り払い、ディネスは旅人たちを映していた画面を閉じた。
管理画面には、新たな記録が次々と届いている。各地の生物の動向や環境の変化を確認し、必要な情報を整理していく。
いつもと変わらない仕事のはずなのに、今日は妙に集中できなかった。
先ほどの旅人たちは、今頃どこを歩いているのだろう。次の町に着くまでに、どんな出来事が待っているのだろうか。
ディネスは手を止め、椅子の背にもたれた。
オルディアには、はっきり断られている。自分が持ち場を離れれば、その間の仕事は先輩が引き受けることになる。
それでも、地上への興味は薄れるどころか、ますます大きくなっていた。
(……ほんの少しだけなら、先輩にもそんなに迷惑はかからないよね)
もちろん、何の保証もない。そんなことはディネス自身が一番よく分かっていた。
しばらく迷った末、彼女はそっと椅子から立ち上がった。
少し離れた場所では、セリオスが複数の管理画面を操作している。ディネスはその姿を一度だけ確かめると、足音を忍ばせて白い空間の奥へ向かった。
誰もいない場所まで来ると、片手を前にかざした。
半透明の画面が現れ、地上の地図が広がる。
「えっと……降下先は……」
ディネスは町や村の位置を確かめながら、指先で地図を動かした。
せっかくなら、最初から町の中に降りるより、自分の足で歩いて向かいたい。そうすれば、旅人たちの気分も少しは味わえるだろう。
「この辺り、よさそう!」
選んだのは、町から少し離れた森の内部寄りだった。
森を抜ければ町へ行ける。そう考えたのだが、実際に森を歩いたことのない彼女には、その道のりがどれほど大変か、まだ分かっていなかった。
降下先を指定すると、地図の横に新たな画面が開いた。
そこには、通常降下と緊急降下、二つの項目が並んでいた。
通常降下には、セリオスかオルディアの承認が必要となる。だが、今のディネスに許可が下りるはずもない。
「……やっぱり、こっちしかないよね」
ディネスの指が、緊急降下の項目へ伸びた。
緊急降下は、本来なら地上で急を要する事態が発生した際に使用するものだ。
通常の承認手続きを省いて降下できる代わりに、地上では使徒の権能が使用できなくなり、自力で管理空間へ戻ることもできない。
もちろん、ディネスもその仕組みは理解している。
戻る方法がないことは、少し気がかりだった。それでも、いずれ先輩たちが何とかしてくれるだろうと、どこか楽観的に考えていた。
少しだけためらってから、緊急降下を選択した。
すると、画面が切り替わり、いくつもの確認項目が表示された。
降下先の環境、地上での身体の状態、権能の制限。ディネスは内容を順番に確かめ、必要な設定を進めていく。
普段から世界を管理している彼女にとって、操作そのものは難しくない。
ただ、実際に自分が降りるとなると話は別だった。
「……これで、合ってるよね?」
何度か設定を見直した末、最後の画面を開く。
そこには、緊急降下を実行するための確認が表示されていた。
伸ばしかけた指が止まる。
(……本当に、行っちゃっていいのかな)
今なら、まだ引き返せる。
オルディアの忠告も、セリオスにかかる負担も、忘れたわけではなかった。
それに、緊急降下を使えば、地上では使徒の力に頼れなくなる。
けれど、ずっと眺めてきた世界に、自分の足で立ってみたい。その気持ちを、どうしても抑えられなかった。
「……帰ってきたら、ちゃんと謝ろう」
小さく呟き、確認に触れた。
足元に淡い光の輪が現れる。
ディネスが両手を広げると、光の輪から細い光の筋が伸び、彼女の周囲に複雑な模様を描き始めた。
その一つひとつが定まるにつれ、身体が少しずつ軽くなっていく。
「わぁ……!」
思わず声が漏れた。
地上では使徒の力を自由に使えず、身体も人間と同じものになる。そのことは知っていたし、危険があることも理解しているつもりだった。
それでも、今は期待の方がずっと大きかった。
光が強まり、足元の輪がゆっくりと回転を始める。
そのときだった。
「ディネス!」
聞き慣れた声が響いた。
驚いて振り向くと、少し離れた場所にセリオスの姿があった。
「せ、先輩!?」
セリオスの傍らには、赤く点滅する管理画面が浮かんでいた。
そこに表示されているのは、緊急降下の実行通知だった。
「お前、緊急降下を使ったのか!」
ディネスは思わず身を縮めた。
(あっ……そうだった!)
緊急降下を実行すれば、セリオスとオルディアの双方へ通知が届く。分かっていたはずなのに、地上へ行けるという期待で、すっかり頭から抜け落ちていた。
だが、今さら気づいても遅かった。
足元の光はすでに彼女の身体を包み始めている。
「え、えっと……その……」
言い訳を探す間にも、光は強くなっていった。
セリオスが急いで距離を詰め、手を伸ばす。
「待て、ディネス! 今すぐ――」
「せ、先輩! ごめんなさーーーーーーーーいっ!!」
ディネスは慌てて頭を下げた。
次の瞬間、光がひときわ強く輝き、彼女の姿を覆い隠した。
セリオスの伸ばした手は、わずかに届かない。
そして、白い空間からディネスの姿が消えた。




