1話【管理者の小さな好奇心】
見渡す限り、白い空間が広がっていた。
壁も天井もなく、どこまでが床なのかさえ分からない。それでも足元には確かな感触があり、空間全体は穏やかな光に包まれている。
その中には、大小さまざまな半透明の画面が浮かんでいた。
画面には細く整った文字や数字がびっしりと並び、白や青、時には赤く色を変えながら、絶えず新しい情報へと書き換わっていく。
役目を終えた画面は、表示されていた文字とともに薄れていき、やがて跡形もなく消える。その空いた場所には、また新たな画面が現れる。
そんな光景を前に、一人の少女が椅子に腰掛けていた。
腰まで伸びた白銀の髪は、背もたれに沿って流れている。白い肌に、鮮やかな赤い瞳。幼さの残る顔立ちから、見た目は十歳ほどだろうか。
身にまとっているのは、繊細な模様が施された白い衣装。ゆったりとした袖の下からは、黒を基調とした服がのぞいていた。
彼女の名はディネス。生命と循環を司る代行者オルディアに仕える使徒の一人だった。
ディネスは目の前に浮かぶ画面に目を走らせていた。
「んー……こっちは問題なし。次は……」
小さな指が宙を滑ると、それに合わせて画面が切り替わった。
そこに表示されているのは、世界各地の生命に関する記録だった。
生まれた命の数、失われた命の数、生息域の変化や繁殖状況。地域ごとに整理された膨大な情報を、慣れた手つきで確認していく。
「北の森林地帯は異常なし。西の大陸も……うん、問題ないね」
確認を終えた項目に印をつけ、次の記録を開く。
「次は南の海域……あれ?」
画面の一角に表示された数値を見て、ディネスはぴたりと指を止めた。
南の海域では、数日前から魚の生息数が大きく減少していた。
(んー……何かあったのかな?)
画面に指を触れると、周辺の海流や水温、繁殖状況などが次々と表示される。
それらを一つずつ確認していくうちに、ある記録が目に留まった。
「ああ、そっか。群れが移動しただけなんだ」
どうやら水温の変化に合わせて、魚の群れが別の海域へ移ったらしい。ディネスは移動先の記録も確認すると、納得したように頷いた。
「じゃあ、こっちも問題なしっと」
記録を閉じ、次の画面を呼び出す。
そこには東の大陸に関する情報が表示されていた。
地域ごとに整理された記録を順に確認していくが、ある国の情報に差しかかったところで、ふと手を止めた。
「あれ?ここの国王、また隣の国と揉めてる」
どうやら国境付近にある港の使用権を巡って、両国の間で交渉が続いているらしい。
以前にも川の領有権を巡って対立していた国同士だった。
(前は川で、今度は港なんだ。忙しい人だなぁ)
ディネスは呆れたように小さく息をつき、国境付近の情報に目を戻した。
「まあ、戦争にならなきゃいいけど……」
そう呟くと、国境付近の生命に関する記録を開いた。
兵士の移動が増えていたものの、生命の数に大きな変動は見られなかった。今のところ、両国の争いが戦闘に発展した様子はない。
過去の記録も呼び出し、現在の状況と見比べてみる。
(うーん、まだ大丈夫そうかな。前みたいに戦争になったら、また確認することが増えちゃうし……)
人間同士の争いに、使徒が直接口を出すことはできない。国同士の問題は、そこに暮らす人々が解決するものだからだ。
もっとも、戦争によって多くの命が失われれば、生命の循環にも影響が及ぶ。そのため、争いが起きそうな地域は普段より注意して確認する必要があった。
「とりあえず、ここは経過観察っと」
ディネスは記録に印をつけ、次の地域へと画面を切り替えた。
今度は、ある山岳地帯の記録だった。
並んだ数値を確認していると、その中に赤く表示された項目を見つけた。特定の植物の個体数が、ここ数日で急激に減少しているらしい。
「ん? これは……ちょっとおかしいかも」
すぐに周辺の環境情報を呼び出す。気温や降水量、土壌の状態に目立った変化はなく、病気や害虫が広がった形跡もない。それなのに、その植物の数だけが減り続けていた。
ディネスは椅子に座り直し、問題の記録を画面の中央へ移動させた。
(原因が分からないなぁ。もう少し詳しく調べてみよう)
指先で画面をなぞると、植物の生育状況や周辺の生態系を示す情報が次々と現れた。
一つずつ調べていくうちに、ある記録だけがほかと食い違っていることに気づく。
「……あれ? 種はちゃんとできてるのに、芽が出てない?」
詳しく調べると、植物が種を作るところまでは正常だった。しかし、その種から新しい芽が出る割合が、突然ほぼゼロになっていた。
ディネスは過去の記録と照らし合わせ、異常が始まった時期を特定した。すると、その日に更新された生命の循環に関する情報の一部が、正常な状態から外れていることが分かった。
(なるほど、ここが原因か。これなら修正できそうかな)
原因を突き止めたディネスは、問題の記録を拡大した。異常が発生している範囲を指定し、修正する情報に間違いがないかを確かめる。
「うん、これで大丈夫そう」
椅子から立ち上がり、目の前の画面に右手をかざす。
権能を使おうと意識した瞬間、背中に大きな白い翼が広がり、頭上には淡く輝く輪が現れた。
画面に並んでいた文字が動きを止め、赤く表示された部分だけが宙に浮かび上がる。その奥には、山岳地帯に広がる植物の姿が映し出されていた。
(修正するのは、この部分だけ……ほかには影響が出ないように)
ディネスが指先を動かすと、赤い文字から細い光の筋が伸び、映し出された山岳地帯へとつながった。光は植物の間を巡り、やがて地中に眠る無数の種へと行き渡っていく。
「……よし」
軽く指を払うと、赤い文字が白へと変わった。同時に光の筋が消え、画面には修正完了を示す表示が現れる。
ディネスは発芽に関する情報を改めて開いた。異常な数値は正常な範囲に戻っており、これから芽を出す種にも問題はなさそうだった。
「これで一安心」
権能の発動を終えると、背中の翼と頭上の光輪がゆっくりと薄れ、やがて消えた。
ディネスは修正した記録に完了の印をつけると、椅子に腰を下ろした。そのまま背もたれに体を預け、大きく伸びをする。
「ふぅ……ちょっと疲れたかも」
しばらく休もうかと考えながら、何気なく近くの画面に目を向ける。そこには、先ほど確認した東の大陸にある街の情報が表示されていた。
いつもより人の動きが活発なことに気づき、ディネスは街の様子を映し出す。
通りには色とりどりの飾りが吊るされ、大勢の人々が行き交っていた。広場にはいくつもの屋台が並び、賑やかな音楽が流れている。
「……そういえば、今日は収穫祭の日だったっけ」
その街では、毎年この時期になると収穫を祝う祭りが開かれる。ディネスも何度か様子を眺めたことがあり、街の人々がこの日を楽しみにしていることは知っていた。
せっかくなので少し覗いてみようと、街の様子を映した画面を大きく広げる。
屋台には焼きたてのパンや果物を使った菓子が並び、子供たちが嬉しそうに駆け回っていた。広場では演奏に合わせて踊る人々の姿も見える。
(今年も賑やかだなぁ。あ、あのお菓子、去年も売ってたやつだ)
ディネスが屋台を眺めていると、広場の一角で丸い菓子が宙を飛んだ。
「あっ、今年もやってる!」
それは祭り恒例の催しだった。投げられた菓子を口で受け止めるという、少し変わった遊びだ。
去年は受け損ねて顔に菓子をぶつけた参加者がいて、周囲が大笑いしていたのを覚えている。
(今年は上手な人がいるかな?)
ディネスは頬杖をつき、次の参加者が菓子を受け止めようとする様子を眺め始めた。先ほどまで確認していた仕事の記録は、いつの間にか画面の端へ追いやられていた。
画面の中では、ひときわ大きな菓子を投げようとしている男がいた。受け止める側の男も張り切っているようで、周囲からは歓声が上がっている。
(あれ、絶対に口に入らないでしょ……)
ディネスは思わず身を乗り出した。投げられた菓子は大きく弧を描き、待ち構えていた男の顔へと飛んでいく。
「いけっ!あっ、惜しい!」
菓子は男の額に当たり、地面へ転がった。
その様子がおかしくて、ディネスが笑い出したときだった。
「……ディネス」
背後から聞こえた低い声に、ディネスの肩がびくりと跳ねた。
恐る恐る振り返ると、そこには白い長衣をまとった異形の姿があった。
羽毛に覆われた頭部には、いくつもの青い瞳が並んでいる。その周囲には、眼球を備えた白い翼のようなものが幾重にも浮かび、ゆっくりと動いていた。
彼の名はセリオス。ディネスと同じくオルディアに仕える使徒であり、彼女よりも先に生み出された先輩にあたる存在だった。
セリオスは細長い指を胸元で組み、いくつもの瞳をディネスへと向けていた。
「せ、先輩……いつからそこに?」
「お前が画面に向かって声援を送っていたあたりからだ。それで、仕事はどうした?」
セリオスのいくつもの瞳が、画面の端に追いやられた記録へ向けられる。ディネスは慌てて祭りの映像を小さくし、仕事の画面を手前に戻した。
「ちゃんとやってたよ!ほら、さっきも異常を一つ修正したし!」
「それは見れば分かる。私が聞いているのは、残りの仕事のことだ」
ディネスは開きかけた口を閉じた。画面には、まだ確認していない地域の記録がいくつも残っている。
(うっ……もう少しだけ見るつもりだったのに)
言い訳を考えかけたものの、セリオスのいくつもの瞳に見つめられ、ディネスはしゅんと肩を落とした。
「……ごめんなさい。ちょっと夢中になっちゃって」
素直に謝るディネスを見て、セリオスは小さくため息をついた。
「まったく……お前は昔から、興味を持ったものにはすぐ夢中になるな」
「だって、楽しそうだったんだもん……」
ディネスは小さく口を尖らせながら、先ほどまで眺めていた祭りの画面にちらりと目を向けた。
「先輩は、ああいうのを見て楽しそうだと思わない?」
「収穫祭のことか?」
「うん。みんなで食べたり、踊ったり、あんなに楽しそうにしてるでしょ?」
ディネスは祭りの映像を再び少しだけ大きくした。画面の中では、先ほど菓子を顔にぶつけた男が仲間たちと笑い合っている。
「私たちはずっとこうして見てるけど……実際にあそこにいたら、どんな感じなんだろうね」
その言葉に、セリオスの瞳のいくつかが、ディネスから祭りの映像へと向けられた。
「……どうだろうな。見ているだけでは分からんこともあるだろう」
「やっぱり先輩もそう思う!?」
ディネスが嬉しそうに振り向くと、セリオスはすぐに言葉を続けた。
「だが、それと仕事を放り出していいかどうかは別の話だ」
「……それはそうだけど」
ディネスは気まずそうに視線を逸らした。セリオスの瞳は、再び仕事の記録へと向けられている。
「それに、我々は世界を管理する側の存在だ。あそこに暮らす者たちとは立場が違う」
「それは分かってるよ。でも、ちょっと気にならない?食べ物がどんな味なのかとか、お祭りに参加するのがどんな感じなのかとか」
ディネスは画面の中で菓子を頬張る子供を指さした。
「私たち、あの世界のことはたくさん知ってるのに、そこにあるお菓子がどんな味なのかも知らないんだよね」
セリオスはしばらく画面を眺めていたが、やがて小さく頷いた。
「……まあ、その点については否定せん」
「でしょ?それに先輩だって、一度くらい地上へ行ってみたいって考えたことあるんじゃないの?」
ディネスが期待に満ちた目を向けると、セリオスは少し考えるように黙り込んだ。
「……考えたことがないと言えば、嘘になるな」
「やっぱり!」
思わぬ返事に、ディネスはぱっと顔を輝かせた。
「じゃあさ、私たちも一度くらい、あっちで暮らしてみてもいいんじゃないかな?」
「待て。なぜそうなる」
セリオスの瞳が一斉にディネスへ向けられた。
「だって、見てるだけじゃ分からないんでしょ?だったら実際に行ってみるのが一番だと思うんだけど……」
ディネスは悪びれる様子もなく首を傾げる。
「お前な……我々には管理の仕事がある。それを誰がやるつもりだ?」
「うーん……」
ディネスは少しだけ考え込み、再びセリオスを見上げた。
「……先輩?」
「……ふざけるな」
セリオスの声が低く響いた。
そのあまりの即答ぶりに、ディネスは不満そうに頬を膨らませる。
「えー!ちょっとくらいいいじゃん!」
「何がちょっとだ!お前が遊びに行っている間、私に仕事を押しつけるつもりだろう」
あっさり見抜かれ、ディネスは気まずそうに笑った。
「えへへ……やっぱり駄目?」
「当たり前だ。それに、地上へ降りるならオルディア様の許可が必要だ。お前の思いつきで決めていいことではないぞ」
「それは……そうだけど……」
ディネスは顎に指を当て、少し考え込んだ。
(そうだ。ちゃんと許可をもらえばいいんだ!)
思いついた途端、ディネスは勢いよく椅子から立ち上がった。
「よし!ちょっとオルディア様に聞いてくる!」
「なに? おい、待て!まだ話は終わっていないぞ!」
セリオスの制止を聞き流し、ディネスは足早にその場を離れていった。
残されたセリオスは、遠ざかっていく小さな背中を見送りながら、深いため息をついた。
「……まったく、あいつは」
その声がディネスに届くことはなかった。




