ハドリアヌスの残影
かつて、最強を誇ったローマ帝国ですら、その北限を「ハドリアヌスの長城」によって区切らざるを得なかった不屈の地、スコットランド。険しい山岳地帯と霧深い峡谷に守られたこの王国は、数世紀にわたりイングランドの侵攻を跳ね返し続けてきた。
現在の支配者は、美貌と冷徹な魔力を兼ね備えた女王メアリー・スチュワート。彼女は四大属性魔法の達人であるだけでなく、エース以外で唯一といっていい【アンチ・マジック(魔法無効化)】の使い手でもあった。
(……やっかいだな。メアリー女王の周囲には、定常的な魔法中和フィールドが展開されている。不用意にテレポートで乗り込めば、転移の術式を中途半端に解体され、次元の狭間に放り出されかねない。物理的に『帰れない』リスクが高すぎる)
エース・ランカスターは、ロンドンの中央司令室で、精巧な地図を見つめながら呟いた。
力による征服は、多くの血と、何より「反感」という名のコストを生む。エースが目指すのは、スコットランドが自らイングランドの軍門に降らざるを得ない「論理的な袋小路」を作ることだった。
彼は即座に、エリザベス女王と軍事外交官クロムウェルを招集し、極秘会談を行った。 「剣で壁を壊す必要はありません。壁の向こう側の人間に、こちら側の『豊かさ』を見せつけ、壁を内側から壊させるのです」
エースが打ち出した策は、驚くべきものだった。 ワットと共に完成させた蒸気機関による産業革命は、イングランドを数世紀分、未来へと加速させていた。量産される安価で高品質な綿製品、そして何より、鉱山や工場を繋ぎ始めた「鉄道」という交通革命。 エースはスコットランドからの労働力を積極的に受け入れることを奨励し、移住者たちに破格の賃金と、魔法で制御された清潔な住環境を提供した。
「生活の格差。これこそが、どんな強力な魔法よりも鋭い、国家を切り裂く刃になります」
鉄道の敷設作業がハドリアヌスの長城付近まで到達した頃、スコットランドの民衆の間で、ある「神話」が広まり始めた。
南の国には、馬も魔法使いも必要とせず、鉄の巨龍が物資を運び、夜でも太陽のように明るい光が街を照らしているという。そして、そこへ行けば誰もが白いパンを食べ、凍えることなく冬を越せるのだと。
物理的な国境は閉ざせても、人々の欲望までを閉ざすことはできない。
エースが敷いた「銀の線路」は、単なる輸送路ではなく、スコットランドの国力を吸い上げ、民心を惹きつける巨大な毛細血管となっていった。




