分子結合とレベルアップの庭
ランカスター准男爵家の広大な庭園の片隅。赤バラの紋章が刻まれた重厚な石壁の陰が、五歳のエース・ランカスターにとっての「聖域」であり「極秘研究所」だった。
傍目には、白く柔らかな頬を泥で汚した幼子が、無邪気に土遊びに興じているようにしか見えないだろう。だが、その瞳の奥では、前世で二十年間培った理系の英知が、凄まじい速度で演算を繰り返していた。
(――結合エネルギーの閾値を突破。自由電子の振る舞いを固定。よし、再構成開始)
エースが泥団子に触れると、一瞬、空気が微かに震える。次の瞬間、ただの泥の塊だったそれは、ダイヤモンドに匹敵する硬度を持つ炭素の結晶体へと変貌を遂げた。
前世の彼は、低賃金に喘ぐポスドクだった。どれほど高度な論文を書いても、どれほど緻密な実験を繰り返しても、報われることのなかった絶望の二十年。エレベーター事故で命を落とした瞬間、彼が抱いた「もっと自分の理論を形にしたかった」という強烈な未練は、この異世界において『生産魔法』という特異な形となって開花した。
「生産魔法は『はずれ』か……。世間の評価なんて、観測者の主観に過ぎないな」
エースは自嘲気味に呟く。この世界の一般的な魔導師たちは、魔力という「エネルギー」をそのまま熱(火)や運動(風)に変換することしか考えていない。しかし、エースの固有スキル【超・論理思考】は、魔法を「物理法則の書き換え」として定義していた。
彼にとっての生産魔法とは、単に物を生み出す魔法ではない。物質の最小単位――原子、分子レベルでの分解と再結合を自在に操る「極微細加工術」なのだ。
エースは庭の土を弄りながら、自身のステータスを脳内で確認する。生産魔法のレベルは10に達していた。
(生産魔法レベル10。ようやく分子間力の操作に慣れてきた。構造変換効率が極めて高いのは、僕の魔力が『量』ではなく『解像度』に特化しているからだろうな)
一度、実験としてポーションの精製も試みた。植物の繊維から有効成分だけを抽出し、分子構造を安定させて溶媒に溶かし込む。前世の実験器具があれば数週間かかる工程を、魔法は一瞬で終わらせた。だが、エースはすぐにその研究を打ち切った。
なぜなら、彼には『神聖魔法』の適性もあり、負傷や病気はそちらで「生物学的な修復」を行った方が効率が良いと判断したからだ。
「僕が本当に作りたいのは、そんな消耗品じゃない」
エースの視線は、庭で甲斐甲斐しく働く専属メイドのアンナに向けられた。彼女は闇魔法と召喚魔法の素養を持つ、いわばエースと同じ「はずれ魔法」の仲間だ。金髪でかわいらしい顔のアンナには、ドキドキするときもある。
彼の究極の目標は、AI(人工知能)を搭載した自律型ホムンクルスの創造。前世のコンピュータサイエンスと、今世の召喚・生産魔法を融合させた、世界を揺るがす「知的な被造物」の誕生だ。
「坊っちゃま、またそんな泥だらけになって……。旦那様に叱られてしまいますよ」
アンナが困ったように微笑みながら、タオルを持って駆け寄ってくる。
「いいんだよ、アンナ。これは将来、この家を……いや、この世界を豊かにするための基礎研究なんだから」
「きそけんきゅう……? よくわかりませんが、エース様は本当に不思議な方ですね」
エースはアンナの手を取り、その掌に先ほど作った「完璧な炭素結晶」を握らせた。
「それはあげるよ。僕にとっては、レベルを上げるための副産物に過ぎないから」
「まあ、綺麗な石! ありがとうございます」
無邪気に喜ぶアンナを見ながら、エースは心に決める。この「はずれ魔法」という評価を逆手に取り、水面下で圧倒的な力を蓄えよう。かつてのポスドク時代のように、誰からも認められないまま消えていくのはもう御免だ。
五歳の体の中に宿る四十歳の魂は、静かに、しかし熱く燃えていた。




