第98話「悪女、逃げ切れない」
走っている。
それも全力で。
貴族令嬢の所作とか、優雅さとか、そういうものは全部どこかへ吹き飛んでいた。
「ちょっと! ルシア! 本気で追われてるじゃない!」
「だから言ったでしょうが! 絶対バレるって!」
背後から、やたらと整った足音が追ってくる。
しかも一人や二人じゃない。
完全に群衆だ。
「セレスティア様ー!!」
「聖女様こっちですかー!!」
「違うって言ってるでしょ!!」
叫びながら、セレスティアは路地を曲がる。
王都の裏通り。
荷車の影。
洗濯物の下。
もはや貴族が走る場所ではない。
「なんでこうなるのよ……!」
息が切れる。
それなのに、追手は減らない。
「あなたが目立つからです!」
ルシアが冷静に返してくるのが腹立たしい。
「目立ってないわよ!」
「その顔で言います?」
「どういう意味よそれ!」
――最悪だ。
完全に最悪だ。
セレスティアは一瞬だけ立ち止まり、壁に手をつく。
心臓がうるさい。
こんなはずじゃなかった。
今日はただの外出のはずだった。
そのときだった。
「こっちです!」
誰かの声。
同時に、路地の奥から小さな扉が開いた。
現れたのは、見覚えのない少年だった。
「こっち! 早く!」
「誰!?」
「説明してる暇ないです!」
セレスティアは一瞬迷う。
だが、背後の騒ぎが近すぎた。
「行くわよ!」
「ええ!」
二人は少年に続いて扉の中へ飛び込んだ。
扉が閉まる。
外の喧騒が一気に遠のく。
暗い。
狭い。
そして妙に埃っぽい。
「ここは……」
「地下通路です」
少年が短く答える。
ルシアが目を細める。
「王都にこんな抜け道が?」
「昔の配水路です。今はほとんど使われてません」
セレスティアは壁に背を預ける。
「で、あなたは?」
少年は少しだけ言いづらそうに頭をかいた。
「その……城の雑務係です」
「雑務係?」
「下働きです」
妙に慣れた動きだった。
貴族ではない。
だが、ただの市民とも違う。
「で、その雑務係がどうして助けるわけ?」
セレスティアの問いに、少年は少しだけ笑った。
「さっきの見てました」
「何を」
「店で揉めてた人たちを一瞬で止めたところ」
セレスティアは顔をしかめる。
「あれは事故よ」
「でも助かってました」
沈黙。
ルシアが小さく息を吐く。
「またこれですか」
「何がよ」
「無自覚なやつです」
少年は真剣な顔で続けた。
「最近、街中で困ってる人が増えてるんです」
「……」
「みんな“決められなく”なってて」
セレスティアは目を細める。
またそれか。
「で?」
「だから……その」
少年は一瞬だけ躊躇してから言った。
「あなたみたいに、一瞬で決めてくれる人がいると助かるんです」
その言葉に、空気が少しだけ重くなる。
セレスティアはゆっくり壁から離れた。
「それ、褒めてるつもり?」
「はい」
「最悪ね」
「えっ」
少年が固まる。
セレスティアは軽く息を吐いた。
「それ、依存っていうのよ」
ぴたり、と少年の動きが止まる。
「自分で決めることを放棄して、誰かに任せる」
「でも……」
「でも、じゃない」
声は冷たい。
だが、怒っているというより、どこか疲れていた。
「それを続けるとね」
セレスティアは視線を上げる。
「決める人がいなくなった瞬間に終わる国になる」
静寂。
ルシアがぽつりと言う。
「あなた、今まさにそれを体現してる人なんですけどね」
「黙りなさい」
即答だった。
少年は困惑している。
「じゃあ……どうすれば」
セレスティアは少しだけ考えた。
そして、肩をすくめる。
「簡単よ」
「え?」
「自分で考えなさい」
あまりにも投げやりな答え。
だが、妙に重い。
「それができないから困ってるんです!」
「だから練習しなさいって言ってるの」
ぴしゃりと切る。
沈黙。
やがて少年は小さくうなずいた。
「……やってみます」
その瞬間。
外から声が響いた。
「中にいるのは分かっているぞー!!」
「まずいわね」
ルシアが即座に言う。
セレスティアはため息をついた。
「ほんと、休ませてくれない国ね」
だがその声は、どこか呆れたようで。
完全な拒絶ではなかった。
そして、彼女は出口の方へ歩き出す。
「行くわよ」
「どこへです?」
セレスティアは振り返らないまま答えた。
「現実に」
その背中は、相変わらず悪女らしくはなかった。
だが確かに、この国のどこよりも厄介な場所に立っていた。




