第96話「悪女の不在は、正常ではない」
第二魔導塔の復旧報告が上がったのは、夜明け前だった。
王城の廊下を走る足音が、いつもより軽い。
だがその軽さは安堵ではない。
とりあえず動いたというだけの、危うい綱渡りの成功だった。
「暫定復旧、完了しました!」
報告書を抱えた若い兵が、息を切らしながら会議室へ飛び込む。
その場にいた者たちは、一瞬だけ肩の力を抜いた。
しかしすぐに、その空気は別のものに変わる。
「暫定……ということは」
「正式な決裁は未だ、です」
その言葉に、誰もが視線を落とした。
解決したわけではない。
ただ動いてしまっただけだ。
王太子は報告書を受け取り、静かに目を通す。
しばらく無言だった。
そして、低く言う。
「……結局、あの女の言う通りか」
その場の誰も、否定できなかった。
その頃。
セレスティアはまだ寝ていなかった。
というより、寝る気配すらなかった。
屋敷の書斎で、淡々と帳簿をめくっている。
夜更けの静けさが、紙をめくる音だけを際立たせていた。
「眠らないんですか?」
ルシアが紅茶を持ってくる。
「眠れると思う?」
「思いません」
「正直ね」
セレスティアはページをめくる手を止めない。
「一応、片付いたみたいよ」
「第二魔導塔の件ですか」
「ええ」
ルシアは少しだけ間を置く。
「あなたが行かずに、解決したんですね」
「違うわ」
即答だった。
「私は“行かなかった”だけ」
「結果的には助けています」
「偶然よ」
そう言いながらも、否定の重みは薄い。
ルシアは小さく笑った。
「相変わらずですね」
「何が」
「助けているのに、助けていないと言うところです」
セレスティアはようやく顔を上げる。
少しだけ疲れた目だった。
「助けるっていうのはね」
静かに言う。
「その場に立つことじゃないの」
ルシアは黙る。
「立ってしまったら、また同じになる」
「あの頃のように?」
「そう」
短い肯定。
王城では、異変がもう一つ起きていた。
決定速度が上がっていた。
それ自体は良いことのはずだった。
だが、問題はその質だった。
「確認が不十分では?」
「いや、今は止める方が危険だ」
「誰が責任を?」
「だから共同で」
以前なら何時間もかかった議論が、数十分で決まっていく。
だがそれは成熟ではなかった。
恐怖だった。
止まることへの恐怖。
また空白になることへの恐怖。
そしてその中心に、誰かの不在が影を落としている。
「……あの方なら」
誰かが小さく言いかける。
すぐに口を閉じる。
その名前を出すことは、今や禁忌に近い。
王太子の執務室。
彼は窓の外を見ていた。
王都はいつも通り動いているようで、どこか歪んでいる。
止まる恐怖で動く国。
それが今の状態だった。
「……滑稽だな」
呟きは誰にも届かない。
机の上には、いくつもの決裁書。
すでに署名済みのものと、未決のものが混ざっている。
以前は一人の判断で終わっていたもの。
今は、複数の合意が必要になる。
だが、その複数は“責任を分散するため”に存在しているだけだ。
「違う」
彼は小さく首を振る。
「これは……正しい形ではない」
しかし、正しい形が何かは分からない。
その日の午後。
王城に一つの報告が上がる。
「北部物流、復旧完了」
「魔導塔、暫定安定」
「都市機能、通常稼働へ回復」
数字だけ見れば、問題は解決していた。
だが、報告書の最後に小さく添えられていた一文が、全員の手を止める。
『ただし、判断遅延リスクは従来比1.8倍に増加』
沈黙。
進行役が書類を閉じる。
「……つまり」
一拍。
「我々は、改善したのではなく」
喉が詰まるような間。
「引き延ばしているだけということか」
誰も否定できなかった。
その夜。
セレスティアは庭に出ていた。
夜風が強い。
ルシアが後ろから歩いてくる。
「また外ですか」
「息苦しいのよ、室内」
簡潔な答え。
しばらく沈黙が続く。
「王城は、少し持ち直したようです」
「少しね」
「ええ」
セレスティアは空を見上げる。
「でもね」
ぽつりと言う。
「それは私がいなくても回るようになったんじゃない」
風が髪を揺らす。
「“私がいないと不安で回し続けるようになった”だけ」
ルシアは目を細める。
「違いは?」
セレスティアは少しだけ笑った。
「前より疲れる国になったってことよ」
その言葉は軽い。
だが、核心を突いていた。
遠く、王都の灯りが揺れている。
それは混乱ではないし、 崩壊でもない。
もっと曖昧なもの。
それはきっと正常の形を模索している不安定さ。
そしてその中心にいるはずの女は、もうそこにはいない。
だが。
誰もまだ気づいていない。
その不在が“問題”ではなく、“条件”になりつつあることに。
セレスティアは踵を返す。
「そろそろ戻るわ」
「書斎に?」
「ええ」
一歩進む。
そして、ふとだけ振り返る。
「ねえ、ルシア」
「はい」
「私って、本当に悪女だったと思う?」
ルシアは少しだけ間を置く。
「少なくとも」
静かに答える。
「この国にとっては、そう呼ばせた方が都合が良かったのでしょうね」
セレスティアは小さく笑った。
「ひどい話」
そして、屋敷へ戻っていく。
夜はまだ終わらない。
国はまだ、彼女なしの形を探している途中だった。




