第92話「悪女不在、意思決定不能」
その日、王城は異様に静かだった。
あまりにも静かすぎる、と言った方が正しいかもしれない。
書類は積まれている。
会議は予定通り開かれている。
人も、制度も、昨日と同じように揃っている。
それでも何かが決定的に違っていた。
「……また保留ですか?」
若い官僚の声は、抑えているつもりでわずかに震えていた。
「慎重に判断すべき案件です」
上官の声は形式的だった。
だが、その慎重が、すでに三日目であることを全員が知っている。
沈黙が落ちる。
誰も、それ以上を言わない。
言えないのではない。
言っても、進まないと理解しているからだ。
その頃。
セレスティアは城外の温室にいた。
植物の匂いは、書庫よりも少しだけ生きている。
彼女は剪定ばさみを手に、淡々と枝を整えていた。
「また、無駄のない切り方ですね」
背後の声に、彼女は振り向かない。
「褒めてるの?」
「事実です」
ルシアは小さく肩をすくめる。
「ただ……王城の方は、少し騒がしくなっています」
セレスティアは手を止めない。
「想定内ね」
「想定内で済ませていい段階でしょうか」
そこで初めて、彼女の手が止まった。
枝の切り口を見つめる。
「人はね」
静かに言う。
「決断を他人に預けると楽になるの」
「はい」
「楽になりすぎると、今度は決め方を忘れる」
ルシアは黙る。
セレスティアは剪定を再開する。
「今、それが起きてるだけよ」
王城では、ひとつの会議が紛糾していた。
議題は小さな税制調整。
本来なら一時間で終わる案件。
だが、三時間経っても結論が出ない。
「前例に従うべきです」
「しかし前例では弊害が」
「では新案を」
「責任は誰が取る?」
最後の一言で、空気が止まる。
誰も次を言わない。
責任。
その言葉が、会議の進行を止めていた。
そして全員が、無意識に同じ人物の不在を思い出していた。
──あの場にいれば。
──あの人なら。
だが、その思考はすぐに打ち消される。
今はもういない。
いないはずの人間に依存することはできない。
できないはずなのに。
王太子の執務室。
彼は一人で書類を見ていた。
いつもより机の上が乱れている。
決裁が滞っている証拠だった。
「……馬鹿らしいな」
誰に向けるでもなく呟く。
ペンを持つ。
止める。
また持つ。
そして、置く。
「違う」
小さく言った。
「違うだろう、これは」
彼の視線が一点に止まる。
そこには、過去の会議記録があった。
セレスティアの名前は、もうどこにもない。
それなのに。
「まだ、いるように感じる」
自嘲のような声。
しかし、それは誤魔化しきれない事実だった。
夕刻。
城の中枢で、異常が起きる。
軍備補給の承認が止まった。
外交文書の最終署名が遅れた。
都市整備計画が未承認のまま滞留する。
一つ一つは小さい。
しかし、連鎖していた。
判断が止まる。
承認が止まる。
そして最終的に、すべてが“待機”になる。
「これは……」
誰かが呟く。
だが続きはない。
理由は明確だった。
誰も、最後の決断を引き受けない。
その夜。
セレスティアは城へ呼び出された。
呼び出したのは王太子だった。
だが、いつものような形式ではない。
「来てほしい」
短い伝言。
それだけだった。
王城の中庭。
夜の風が強い。
彼はそこに立っていた。
「……珍しいわね」
セレスティアは淡々と言う。
「呼ばれる側になるのは」
「笑う余裕はあるのか」
「あるように見える?」
彼は少しだけ視線を逸らした。
「ないな」
即答だった。
沈黙。
風が枝を揺らす。
王太子が言う。
「城が止まりかけている」
「知ってるわ」
「お前がいないと決められない」
そこで初めて、セレスティアの表情がわずかに変わる。
「それは、あなたたちの問題よ」
「わかっている」
だが、と彼は続ける。
「もう“慣れた”んだ」
「何に?」
「お前が結論を出すことに」
その言葉は、軽い依存ではなかった。
制度そのものの癖だった。
セレスティアは夜空を見る。
星は静かだ。
「だから言ったでしょう」
ゆっくり言う。
「私はもう中心じゃない」
「だが現実はそう思っていない」
「現実の方が間違っているだけよ」
言い切る。
だが、その言葉に揺らぎはない。
そのとき。
城の方角から鐘が鳴った。
一度。
二度。
通常の緊急とは違う音。
王太子の表情が変わる。
「……まさか」
彼は踵を返す。
セレスティアも、遅れて視線を向ける。
遠くで、城の灯りが一つ増える。
いや、増えすぎている。
「判断不能時の最終規程が発動した」
王太子が低く言う。
「そんなもの、誰が」
言いかけて、止まる。
答えは一つしかない。
“彼女がいた頃に整備された仕組み”だ。
だが今、その仕組みは暴走している。
判断者不在の連鎖。
自動保留。
無限の停止。
セレスティアは静かに言った。
「ほらね」
「何がだ」
「私がいなくなったんじゃない」
「……」
「私の代わりを、作ってしまったのよ」
それは悪女の笑みではなかった。
もっと厄介なものだった。
理解している者の顔だった。
城の鐘は鳴り続ける。
止まらない。
止める方法が、まだ誰にも分からない。
そしてその中心に。
誰も望まなかった空白が、確かに存在していた。
セレスティアは一歩だけ後ろに下がる。
「さて」
小さく言う。
「どうするのかしら、あなたたち」
夜風が強くなる。
王都の灯りが、わずかに揺れていた。




