第91話「悪女のいない国で、歯車は少しだけ軋む」
その朝、王城の空気は軽かった。
正確には、「軽くなったはずだった」。
誰かがいないことに、すぐには気づけない程度には。
それでも、確かに何かが違っていた。
会議室の卓上に置かれた資料は整然としている。
議題も、進行も、以前と変わらない。
変わったのはただひとつ。
あの中心にいたはずの重心が、もうどこにもいないことだった。
「……問題はありませんね」
進行役の声は、やや早口だった。
誰も異を唱えない。
沈黙は、肯定として処理される。
だがその沈黙は、かつてのような安定ではない。
どこか、空白を埋めるような沈黙だった。
その頃。
セレスティアは城の外れの書庫にいた。
光の少ない、古い記録室。
誰も寄りつかない場所。
彼女は机に肘をつきながら、分厚い地方統治記録を眺めていた。
「……ここ、修正が甘いわね」
独り言は、誰にも届かない。
だからこそ、気楽だった。
「悪女の仕事じゃないけど」
小さく肩をすくめる。
そのとき、背後で紙がめくられる音がした。
「またこんなところにいるんですね」
ルシアだった。
「探したの?」
「探すまでもありません。あなた、だいたい面倒が少ない静かな場所にいますから」
「評価が的確すぎて嫌になるわね」
ルシアは軽く息を吐く。
そして、少しだけ声を落とした。
「……城が、少しだけ揺れています」
セレスティアは視線だけを上げる。
「どこが?」
「あなたがいない前提に、まだ慣れていません」
沈黙。
ページをめくる音だけが響く。
セレスティアは、しばらくして言った。
「そのうち慣れるわ」
「そうでしょうか」
「慣れなければ、それはそれで問題ね」
淡々とした声だった。
けれど、どこか他人事ではない重さがある。
その夜、王城の中枢で小さな会議が開かれた。
議題は、外交方針の微調整。
本来なら問題ない案件。
しかし、決定が妙に遅い。
誰もが意見を持っているのに、誰も決めない。
「以前なら……」
誰かが呟き、すぐに言葉を飲み込む。
以前なら、という言葉は、ここでは禁句に近い。
そこにいた誰かの影が濃すぎるからだ。
王太子は沈黙していた。
書類の上に視線を落としたまま、動かない。
彼の指先が、わずかに紙を押す。
「……保留にしよう」
ようやく発せられた声は、それだけだった。
反論はない。
だが、納得もない。
ただ、空白だけが残る。
その頃、セレスティアは庭園を歩いていた。
夜の庭は静かだ。
風が枝を揺らす音だけがある。
「意外ね」
背後から声。
王太子だった。
彼は少し距離を保ったまま立っている。
「あなたが、こういう場所にいるとは思わなかった」
「私も、そう思っていたわ」
即答だった。
王太子は小さく笑う。
しかし、その笑みはどこか探るようだった。
「あなたがいないと、会議が遅い」
「それは良いことでは?」
「良いことだ。……たぶん」
曖昧な返答。
セレスティアは足を止める。
「依存しているわね」
「否定はできない」
即答だった。
少しの沈黙。
夜風が二人の間を通る。
王太子が言った。
「戻るつもりは?」
セレスティアは空を見上げる。
星は、いつも通りだった。
「戻る場所なんて、最初からなかったわ」
「では今は?」
「ただ、少し外側にいるだけ」
彼は何か言いかけて、やめた。
その代わりに、こう言った。
「あなたがいないと、世界が静かすぎる」
セレスティアは少しだけ目を細めた。
「静かな方がいいでしょう」
「そうだな」
だが、その言葉はどこか苦い。
その翌朝。
城内で、初めて小さな混乱が起きる。
決定が一つ、宙に浮いたまま動かなくなったのだ。
誰も責任を取らない。
誰も決断しない。
そして誰も、気づかないふりをしている。
それは小さな歪みだった。
だが、確実な歪みだった。
書庫でそれを知ったセレスティアは、静かに本を閉じた。
「……早いわね」
ルシアが聞く。
「何がですか」
「いなくても回る世界の崩れ方」
彼女は立ち上がる。
外套を手に取る。
「行くのですか?」
「いいえ」
即答。
「行く必要はないわ」
窓の外を見た。
遠くで、城がわずかにざわついている。
それでも彼女は動かない。
「ただね」
小さく続ける。
「少しだけ、自分で決めることを思い出すだけ」
それは悪女の言葉ではなかった。
だが、誰よりも悪女らしい自由だった。
その日、城は初めて気づく。
あの女がいなくなったのではない。
最初から、依存していただけだったのだと。
そして物語は、少しだけ軋みながら続いていく。
セレスティア・ハイラントは、まだそこにいる。
ただしもう、誰の中心でもない場所で。




