第65話「悪女は、踏み絵を裏返す」
正面衝突が始まった、と言っても。
王都は意外なほど、平穏だった。
人は慣れるのが早い。
混乱よりも、日常を選ぶ。
「……静かすぎない?」
ルシアが朝の回廊を歩きながら、小声で言った。
「ええ」
セレスティアは足を止めずに答える。
「だから、向こうは次の段階に入る」
その予感は、昼前に形になった。
王城から正式な通達。
旧都市連盟と関係の深い事業について、
一時的な再調査を行うという名目の指示。
「再調査、ね」
マリエルが紙を指で弾く。
「実質は、踏み絵」
アレクシスが頷く。
「協力するか、距離を取るか。
曖昧な立場を許さない」
ルシアが不安そうにセレスティアを見る。
「どうするの?」
「簡単よ」
セレスティアは微笑んだ。
「踏み絵を、裏返す」
その日の午後。
彼女は、自ら再調査の対象になっている事業者を招いた。
商人、地方領主、技術者。
顔ぶれは、ばらばら。
応接室に集まった彼らは、皆、落ち着かない様子だった。
「正直に言うわ」
セレスティアは、遠回しな前置きをしない。
「今回の再調査、協力すれば安全。
拒めば、面倒な立場になる」
ざわり、と空気が揺れる。
「でも」
一呼吸。
「わたくしは、どちらも勧めません」
一瞬、理解できない顔が並んだ。
「協力も、拒否も、選ばなくていい」
「そんなこと、できるんですか?」
誰かが声を震わせる。
「ええ」
セレスティアは頷く。
「調査項目、すべて公開します。
手続きも、判断基準も」
マリエルが補足する。
「不利な解釈が入らないよう、
第三者も入れます」
商人の一人が、目を見開いた。
「それって……」
「踏み絵じゃなくなる」
セレスティアは静かに言った。
「白か黒かじゃない。
何をしてきたか、だけを見る」
沈黙のあと、誰かが息を吐いた。
「……それなら、逃げなくていい」
「ええ」
セレスティアは微笑む。
「逃げる必要、ありません」
その場で、何人かがはっきりと頭を下げた。
協力でも、拒否でもなく。
信頼として。
情報は、すぐに広がった。
公爵令嬢は、踏み絵を壊した。
選ばせるのを、やめさせた。
それは、旧都市連盟にとって想定外だった。
夜、リュシアンが低く言う。
「向こう、焦る」
「でしょうね」
セレスティアは窓辺で夜景を眺める。
「力を使う人ほど、
人が勝手に動くのを嫌う」
アレクシスが言った。
「次は、もっと露骨に来るぞ」
「ええ」
振り返り、目を細める。
「でも、もう遅い」
踏み絵は、意味を失った。
名を伏せていた人たちは、
黙って立っていられる場所を得た。
悪女は、誰かを選ばなかった。
選ばされる構図そのものを、壊した。
それが、いちばん嫌われるやり方だと知りながら。
嵐は、確実に近づいている。
でも今夜、王都は少しだけ、息がしやすかった。




