第63話「名を呼ぶ者、名を伏せる者」
夜明け前、王都に小さな音が増え始めた。
戸を開ける音。
馬車が走る音。
そして、誰かが誰かの名を確かめる声。
「動き出したね」
マリエルが窓辺で呟く。
「ええ。思ったより、早い」
セレスティアはすでに着替えを済ませ、手袋をはめていた。
眠った形跡はない。
アレクシスが一通の書簡を差し出す。
「未明に届いた。
署名はなし。けど、文体は中立派の一人だ」
セレスティアは目を通し、軽く息を吐く。
「名を伏せたまま、立場だけ伝えてくる。
まだ、怖いのね」
「責められないよ」
ルシアが小さく言う。
「間違えたら、全部失う」
「だからこそ」
セレスティアは書簡を机に置いた。
「名を呼ぶ人が、必要なの」
その直後、別の報告が届く。
今度は、はっきりとした署名付き。
地方貴族二家と、商会一つ。
短い文面。
公爵令嬢の管理下にある支援網に、正式に加わると。
ルシアが目を見開く。
「ほんとに……出てきた」
「ええ」
セレスティアは微笑まない。
「勇気があるか、追い詰められたか。
どっちでもいい」
リュシアンが腕を組む。
「これで、敵もはっきりする」
午前中、王城内で小さな騒ぎが起きた。
旧都市連盟と近い議員が、非公式の集会を開いたという噂。
参加者の名は伏せられ、内容も曖昧。
「名を伏せる側が、集まり始めた」
マリエルが冷静に言う。
「ええ」
セレスティアは頷く。
「呼ばれないと、動けない人たち」
昼過ぎ、意外な来訪者が現れた。
「……あなた?」
扉の向こうに立っていたのは、
かつてセレスティアを露骨に避けていた若い貴族だった。
「少し、時間をいただけますか」
声が震えている。
応接室で向かい合うと、彼は深く頭を下げた。
「昨日まで、黙っていました。
どちらにもつかず、やり過ごすつもりでした」
「でしょうね」
セレスティアは遮らない。
「でも……昨夜、子どもに聞かれたんです」
顔を上げる。
「父上は、なにを守っているのって」
沈黙。
「答えられませんでした」
彼は、意を決したように言った。
「正しいかどうかは分かりません。
でも、名を伏せるのは、もうやめます」
セレスティアは、静かに頷いた。
「ようこそ」
それだけで、十分だった。
彼が去ったあと、ルシアが目を潤ませる。
「ちゃんと、伝わってるんだね」
「ええ」
セレスティアは窓の外を見る。
王都の空は、まだ灰色。
でも、完全な夜ではない。
「名を呼ぶ人が増えれば、
名を伏せたままじゃ、いられなくなる」
その夕方、旧都市連盟側が新たな声明を準備しているという情報が入った。
今度は、もっと強い言葉で。
名指しで。
アレクシスが言う。
「正面から来るぞ」
セレスティアは、静かに笑った。
「やっとね」
悪女は、名を背負う。
逃げも、隠れもしない。
名を伏せる者たちは、
その背中を見るしかなくなる。
選択の時間は、もう終わりに近い。




