第55話「悪女の仮面、初めての亀裂」
その日の午後、王城の回廊は静かすぎた。
いつもなら噂話が漂う場所なのに、今日は妙に空気が張りつめている。
セレスティアはその違和感に、すぐ気づいた。
「……静かすぎない?」
隣を歩くリュシアンが、周囲を一瞥する。
「人が避けてる。意図的に」
避けられるのには慣れている。
好奇の視線も、称賛も、警戒も。
けれど今日のそれは、少し違った。冷たく、切り離すような距離。
角を曲がった先で、数人の貴族令嬢が立ち止まる。
ひそひそ声が、今度ははっきり耳に届いた。
「……やっぱり、あの人よね」
「善意を装って、裏で操ってるって」
「近づかないほうがいいわ」
セレスティアは足を止めた。
「ふうん」
声をかけるでもなく、睨むでもなく、ただ一歩前へ出る。
令嬢たちはびくりと肩を揺らし、慌てて頭を下げた。
「ご、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
セレスティアは微笑む。
完璧な、公爵令嬢の微笑み。
通り過ぎたあと、ルシアが小さく言った。
「……今日は、ちょっと強い噂が流れてる」
「内容は?」
「セレが、支援や善行を使って人の弱みを握ってるって。
逆らうと、不幸になるって話」
セレスティアは思わず笑いそうになった。
「ずいぶん物騒ね」
でも、胸の奥が少しだけ冷えた。
冗談で済ませるには、広がり方が早すぎる。
執務室に入ると、マリエルが珍しく険しい顔をしていた。
「来たわね」
机の上には、複数の報告書。
どれも、同じ方向を向いている。
「噂の出どころ、いくつか特定できた。
共通点は、表に出ない中間管理層。商会、後援会、評議補佐」
アレクシスが腕を組む。
「正面から殴りに来ない。評判を削って、孤立させる手だ」
セレスティアは椅子に腰掛け、指先で机を軽く叩いた。
「……効くわね、これは」
「え?」
ルシアが驚いた顔をする。
「だって」
セレスティアは天井を見上げる。
「褒められても叩かれても、今までは笑っていられた。
でもこれは、私じゃなくて、周りを傷つける」
支援を受けている人たち。
関わった人たち。
その名前が、噂と一緒に囁かれている。
「悪役令嬢の評判が下がるのは、望むところだけど」
声が、少しだけ低くなった。
「巻き込むのは、趣味じゃない」
リュシアンが一歩近づく。
「じゃあ、仮面を外す?」
セレスティアは彼を見た。
「いいえ。逆」
「逆?」
「もっと、悪女になる」
室内が静まる。
マリエルが眉をひそめる。
「それは……」
「私が全部背負う」
セレスティアは立ち上がった。
「支援も、決定も、全部“私の独断”にする。
裏で操ってる誰かなんていない。
いるのは、調子に乗った公爵令嬢一人」
アレクシスが鋭く言う。
「それじゃ、お前の立場が」
「守られるでしょ?」
軽く肩をすくめる。
「どうせ、断罪される予定だったんだから」
その言葉に、リュシアンの表情が曇った。
「……それは、もう違う」
セレスティアは一瞬、言葉に詰まる。
でも、すぐに笑った。
「知ってる。でも、役に立つの」
沈黙が落ちる。
マリエルが、静かに息を吐いた。
「わかった。なら、数字と書類は完璧にする。
独断でも、突っ込めないように」
アレクシスも頷く。
「護衛は倍にする。
悪女が倒れたら、話にならん」
ルシアが不安そうに見上げる。
「セレ……無理しないで」
セレスティアは、彼女の頭にそっと手を置いた。
「大丈夫。慣れてるから」
そう言い切った瞬間、胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
慣れているはずの仮面が、今日は少し重い。
部屋を出たあと、回廊でリュシアンが並ぶ。
「君、怖い顔してる」
「そう?」
「うん。初めて見る」
セレスティアは歩きながら、ぽつりと言った。
「ねえ。もし私が、本当に嫌われたら」
「そのときは?」
「……それでも、隣にいる?」
彼は立ち止まり、迷いなく答えた。
「いるよ。嫌われるのは、君の才能じゃない」
セレスティアは思わず吹き出した。
「なにそれ」
「事実」
その笑いで、少しだけ楽になる。
噂は消えない。
仮面は重くなる。
でも、ひびが入ったからこそ、守りたいものがはっきりした。
悪役令嬢は、今日も舞台に立つ。
今度は、自分で選んだ役として。




