第50話「地上へ戻る、その前に」
地上へ続く階段の前で、セレスティアは一度だけ振り返った。
井戸の広間は静まり返り、まるで何事もなかったみたいに落ち着いている。
けれど、確かに何かが変わった。空気の重さも、胸の奥の感覚も。
「……戻れる、よね」
ルシアがぽつりと呟く。
「戻れるわよ」
マリエルが即答した。
「封印は安定してるし、今すぐ崩れる兆しもない。ただし、ここが完全に無関係な場所になったわけじゃない」
アレクシスが周囲を見回しながら言葉を継ぐ。
「つまり、誰かが嗅ぎつければ、また狙われる。それは覚悟しておけ、ってことだな」
リュシアンは少しだけ視線を落とし、苦く笑った。
「結局、静かに消える選択肢は消えたみたいだ」
セレスティアはその横顔を見て、首を振る。
「消えなくていい。生きて、面倒ごとに巻き込まれる方が、ずっとあなたらしい」
リュシアンは驚いたように瞬きをして、それから小さく息を吐いた。
「……君にそう言われると、反論しづらいな」
階段を上りはじめると、空気が少しずつ軽くなる。
湿った地下の匂いが薄れ、遠くから人の気配が混じってくる。
地上へ出た瞬間、朝の光が一気に視界を満たした。
「まぶし……」
ルシアが目を細める。
王都の広場は、昨日までと変わらない喧騒に包まれていた。
祭りの準備も進み、笑い声や掛け声が飛び交っている。
その日常が、やけに尊く感じられた。
「とりあえず、今日は解散だな」
アレクシスがそう言いながらも、視線は鋭いままだった。
「ただし、全員しばらくは警戒を解くな。井戸の件は、もう隠しきれない」
マリエルがうなずく。
「情報の流れを整理するわ。誰が、どこまで気づいてるかを把握しないと」
ルシアが拳を握る。
「私も手伝う。もう、知らないふりはできないもん」
セレスティアは三人を見渡し、最後にリュシアンへ視線を向けた。
「あなたは……これからどうする?」
少しの沈黙。
リュシアンは空を見上げた。
高く、澄んだ空。井戸の底とは正反対の色。
「正直、まだ実感がない。でも……」
彼はセレスティアを見る。
「君のそばにいる。それだけは、はっきりしてる」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
「じゃあ決まりね」
セレスティアはいつもの調子で言った。
「これからは逃げる役じゃなくて、一緒に頭を抱える役。覚悟してね」
リュシアンは、困ったように笑った。
「それ、番人より重い役目かもしれない」
そのやり取りを、アレクシスが少し離れたところから見ていた。
何か言いたげだったけれど、結局は言葉にせず、静かに背を向ける。
「俺は王城に戻る。報告が山ほどある」
マリエルとルシアもそれぞれの持ち場へ向かう準備をする。
人の流れに溶け込みながら、セレスティアとリュシアンは並んで歩き出した。
「ねえ」
「なに?」
「井戸の中で言ってたこと……選び直せるって」
リュシアンは一歩遅れて答えた。
「うん」
「私、これからも間違えると思う。善意も、悪意も、たぶん盛大に勘違いする」
彼は小さく笑った。
「それは知ってる」
「それでも、隣にいてくれる?」
リュシアンは足を止め、まっすぐに彼女を見た。
「何度でも」
短い答えだったけれど、迷いはなかった。
セレスティアは前を向く。
王都は今日も平和そうで、何も知らない顔をしている。
でもその下で、世界の仕組みは確かに動き始めていた。
悪役令嬢を目指していたはずの彼女は、気づけばまた厄介な立場に立っている。
けれど、不思議と嫌じゃない。
むしろ少し、楽しみですらあった。
「さあ」
セレスティアは歩き出す。
「次はどんな誤解が待ってるのかしらね」




