第44話「消えた影の残響」
リュシアンの巻紙を受け取った翌朝、城の空はどこか薄暗く、雲が低く垂れ込めていた。空気は静かで、冷たい。まるで城そのものが深呼吸を忘れてしまったみたい。
セレスティアは大広間で調査班の面々と顔を合わせた。地図や資料を広げ、森の西の拠点から得られた情報をもう一度精査する。けれど、どの線も途中でぷつんと切れてしまう。
まるで「ここから先はあなたたちの領域じゃない」と言われているように。
アレクシスが腕を組みながら、渋い顔で言う。
「相手は痕跡を消すだけじゃなく、見せたいところだけ残している。こちらを誘導してる可能性が高い」
「誘導されてるとしたら、どこに?」
ルシアが地図に目を走らせる。セレスティアは、言われなくても気づいていた。地下拠点で見た図面、その中心近くにぽっかりと穴が空いていた場所。
「王都の北、古い給水塔区域よね」
マリエルが頷く。
「あそこ、昔は施設があったけど今は廃墟ばかり。監視も薄いし、情報の隠し場所には最適かも」
ただの推測に見えて、妙に腑に落ちた。組織の地図が王都全体を覆うように描かれていたのに、その区域だけ異様に簡略化されていたからだ。
アレクシスが息を吐く。
「行くなら慎重にだ。相手が誘ってるなら、罠くらい仕掛けてる」
その言葉を聞いた瞬間から、胸がざわつく。リュシアンの消失は、その罠と無関係ではない気がしてならなかった。
午後、セレスティアたちは少数精鋭で北の給水塔へ向かった。灰色の雲が低く垂れ込め、風が建物の隙間を抜けるたび、古い金属の音が断続的に響く。
塔の周囲には人の気配がまったくない。草が伸び放題で、石畳は半ば隠れかけていた。
「ここ、本当に何もないのかな?」
ルシアが不安そうに周囲を見渡す。セレスティアも同じ気持ちだった。けれど、風の中に微かに違う匂いが混じっている。
甘く、どこか刺すような香り。
昨日の職員が言っていた“森の西の草の匂い”に似ていた。
「どこかで、同じ草を焚いている」
マリエルがそう呟くと、全員の動きが一気に引き締まった。
塔の裏手に回ると、古い扉が半開きになっていた。中は暗く、冷たく、湿っている。アレクシスが合図をして、ひとりずつ中へ入る。
薄暗い空間の奥、壁沿いに壊れた棚が並ぶ。床は土と埃で滑りやすい。だが、その中央だけが不自然に踏み固められていた。
「誰かが…いる?」
ルシアが小さく呟いた瞬間、背後で風がざわっと揺れた。
セレスティアが振り返る。そこには人影はない。ただ、視線を感じる。息を潜めた何者かが、こちらの動きをじっと見つめている。
アレクシスが剣の柄に手をかけた。
「出てこい」
沈黙が広がり、塔の天井が低くきしむ音がした。
やがて、奥の影の中から小さな音が近づいてくる。足音なのに、まるで地面を軽く撫でるだけのような柔らかい音。
マリエルが息を呑んだ。
「この足音…普通じゃない」
姿を現したのは、黒い外套をまとった人物だった。フードを深くかぶり、顔は見えない。ただ、動きが滑らかで、まるで影が歩いているみたいだった。
外套の人物はセレスティアたちをひと通り見渡し、低い声で言う。
「ここに踏み込むとは、覚悟があるらしい」
アレクシスが一歩前へ出る。
「お前が、この網の中心か?」
その問いに、影は静かに首を横に振った。
「中心ではない。ただの“手”だ。だが、お前たちが探している者の一部は知っている」
セレスティアの心臓が大きく跳ねる。
「リュシアンのこと?」
影は微動だにしなかったが、確かに反応した気配があった。
「彼は、井戸の深さを知りすぎた。だから、自ら沈んだ」
その言葉は余裕でも、脅しでもなく、ただ事実だけを述べているようだった。
「彼は生きているの?」
セレスティアが踏み込むと、影は少しだけ顔を上げた。フードの奥で何かが光る。
ただ、その瞬間。
塔全体が、ぐらっと揺れた。
床がわずかに沈み、壁に走る罅から砂がぱらぱらと落ちる。
マリエルが叫ぶ。
「罠だ、天井が崩れる!」
アレクシスが即座にセレスティアを抱き寄せ、外へ走る。ルシアも続く。
影の人物は——不思議なほど静かだった。崩れる天井をちらりと見上げると、まるで風の中へ溶けるように姿を消した。
外に飛び出した瞬間、塔が大きな音を立てて一部崩れた。
土煙の中で息を整えながら、セレスティアは震える声で言う。
「今の…あれが、井戸の“手”?」
アレクシスが短く答えた。
「わからない。ただ一つ…リュシアンが自分の意思で消えた、というのは嘘じゃなさそうだ」
ルシアがセレスティアの手を握る。
「セレ、まだ諦めちゃダメ。彼、きっと生きてる」
セレスティアは深く息を吸い、こぶしを握る。
「ええ…必ず追いつく。どんなに井戸が深くても」
崩れた塔の向こう、灰色の雲がゆっくりと流れていく。
その先に、リュシアンの影が確かに続いている気がした。




