第42話「深層の影、ゆらぐ光」
朝の鐘が響く前、城の中庭は薄い霧に包まれていた。白い息を吐きながら歩くセレスティアの足元を、まだ眠たげな小鳥が横切る。夜更けまで資料を読み込んでいたせいで身体はやや重いけれど、気持ちは妙に冴えていた。
前夜、リュシアンから渡された手紙。その文面にあった“もっと深い井戸”という表現が、頭から離れない。単なる警告ではなく、彼なりの示唆。ならば、その井戸の底にいるのは誰なのか。
朝の評議会では、内部調査班が新しい報告を持ってきた。例の中堅職員からさらに芋づる式に数名の名前が挙がり、彼らの帳簿には微妙な不一致が点々と残っていた。どれも裁けるほどの証拠ではない、けれど偶然と片付けるには多すぎる。
「これ、良く見て。数字を直すクセが妙に一定してる」
マリエルが帳簿の写しを示し、指で示された箇所をセレスティアは覗き込む。薄い線の書き換え方や桁の丸め方、小さな誤差の付け方。それらが、一人の癖にしては広範囲すぎた。
「複数の手が混ざってる。でも根の部分はひとつに似ている」
マリエルの推測は、裏で一人の“書式管理者”が癖を統一していた可能性を示していた。つまり、表向きは複数犯でも、裏ではひとつの指揮が働いている。
昼過ぎ、セレスティアはルシアとアレクシスを伴い、特定された職員の一人を非公式に呼び出した。相手は細身で目つきが鋭く、常に周囲を警戒するように動く。話を切り出した途端、その肩に緊張が走る。
「脅されてたんでしょう。敵意はありません」
セレスティアが柔らかく言うと、職員はかすかに眉を下げた。迷いがにじみ、沈黙が続く。アレクシスが無言で席を外し、部屋には二人だけが残る。
「もう、無理に抱えなくていいよ」
その一言に、相手の喉が震えた。やっと絞り出した声は、ひどく弱かった。
「家族が人質みたいに縛られていたんです。名前は知らない。顔も直接見ていない。ただ、伝達が…あの記号で来るんです」
例の伝令笛の符号。だが職員の次の言葉が、部屋の空気を変えた。
「笛の音じゃない時もありました。紙が届くとき、香りがついているんです。森の西側にしか咲かない草の匂いが」
森の西。そこは王都の監視が薄く、古い交易ルートと密輸路が入り組んで残った土地だった。評議会で未解決の案件がいくつも眠っている区域。
夜、調査班とともに森の西へ向かう準備を整える。霧が晴れる夕刻、風がひんやりと枝を鳴らす。道沿いに並ぶ古い小屋、その一つにほのかに甘い香りが漂っていた。職員の言った草の匂いだ。
扉を押すと、きしむ音が森に吸い込まれる。中は整理されていて、散らかった気配がない。誰かが定期的に使い、痕跡を丁寧に隠しているのがわかる。
マリエルが床の微かな跡を見つけ、膝をついた。
「これ、踏み板がある」
押すと、床の一部が静かに沈む。地下への梯子が現れた。セレスティアはルシアに目で合図し、慎重に降りていく。
地下室は驚くほど広かった。壁一面に帳簿の写し、符号表、地図、連絡ルートの図。まるで影の指揮所。灯りをつけた瞬間、ルシアが息を呑む。
「これ…都全域を覆っているわ」
ただの不正ではない。広く浅く張りめぐらされた情報の網。誰がこの網の中心なのか、まだ見えない。ただ、周到に準備された“長い企み”だけが確かだった。
セレスティアが地図に指を滑らせていると、ふいに紙束の奥に一通の封書を見つける。封蝋は無地、文字はあの乱暴な筆跡。
リュシアンからのものではない。似ているが微妙に違う。乱暴だけれど温度がない。まるで真似たような、機械的な筆跡。
封を切ると、短い文が現れる。
「井戸の底へ来たなら、静かに戻れ。まだ降りる段はある。気づけば、遅い。」
挑発でも警告でもない。監視者の無機質な告知みたいだった。
アレクシスが後ろから覗き込み、低い声で言う。
「これは…まだ誰かに見られてるってことだ」
地下は静かで、風さえ通らない。なのに、背後で誰かの呼吸が聞こえるような錯覚がする。
セレスティアは一歩後ろに下がり、仲間を振り返る。
「ここは封鎖して、正式な調査に回す。でも…一つだけ確かになった」
その声は落ち着いているけれど、瞳の奥には炎のような気配が灯る。
「敵は、外じゃなくて、もっと深いところで息をしてる」
森の闇が、まるで何かを隠して笑っているように見えた。




