第35話「静かな夜ほど、心は騒ぐ」
内部に潜む影の気配が濃くなってきたある夜。城の回廊はいつもより静かで、灯りの揺れもどこか落ち着かない。セレスティアは資料を片手に、深呼吸しながら歩いていた。
「これ以上、誰かを巻き込む前になんとか掴みたいんだけど……」
声に出すと、胸の奥の緊張が少し軽くなる気がする。今日も部署の観察を続けていたけれど、決定的な一手には届かなかった。それでも小さなヒントはいくつも集まってきている。点が線になるまで、あと少し。
執務室の前を通りかかると、扉の隙間から光が漏れていた。こんな時間に残っている人なんてめったにいないのに。
「……誰?」
そっと覗くと、そこに座っていたのはアレクシスだった。机に片肘をつき、じっと書類を睨んでいる。明かりが彼の横顔を照らし、眉間の皺がやけに深く見える。
「アレクシス?」
声をかけると、彼は驚いたように振り返り、すぐ柔らかい笑みを浮かべた。
「セレスティア。こんな夜更けにどうした? 休まなきゃいけない時間だろう」
「あなたこそ休みなさいよ。そんな顔して働いてると、明日ひどい寝癖つくわよ」
「……寝癖は関係ないと思うんだけどな」
彼がくすっと笑って、セレスティアも少し肩の力が抜けた。
どうしてだろう、彼のこういう笑い方を見ると、自分がほんの少し強くなれる気がする。
「それで、こんな時間まで何を?」
アレクシスは机の上の書類に手を置いた。
「今日、別部署の動きを調べていた。そこに妙な資材の流れがあってね。おそらく誰かが意図的に“痕跡を薄くしてる”。君が見つけたメモと合致するかもしれない」
「痕跡を薄く……」
「そう。誰かが“見られたくない場所だけ綺麗にする”ような動き。ごまかすつもりなら大胆に隠すはずなのに、これは逆だ。隠したように見せるほどじゃない。だからこそ厄介だ」
アレクシスの声は低く落ち着いていたけれど、その奥にある焦りは隠しきれていなかった。
彼は国を守るための最前線に絶えずいる。その重さは、きっと彼にしかわからない。
気づけばセレスティアは彼の隣に寄っていた。
「ねえ、アレクシス」
「ん?」
「あなたが全部抱える必要はないのよ。わたしにもできること、まだあるはずだから」
アレクシスは一瞬だけ目を伏せ、少しだけ苦笑した。
「……君にそう言われると、本当に救われてしまうから困る」
「救われていいのよ? 何を困るの?」
「いや、その……助けられる側が慣れていないと言うか……」
照れているアレクシスを見るのは珍しくて、セレスティアは思わず笑ってしまった。
「じゃあ慣れなさい。これからも助けるんだから」
ちょっと強気に言うと、アレクシスは一瞬固まり、それから小さく深呼吸した。
「……わかった。頼らせてもらうよ、セレスティア」
夜の空気がほんの少し温まったような、そんな静かで優しい時間が流れた。
* * *
廊下を歩いて自室へ戻ろうとしたその時。
風がふっと吹き抜けた。
窓は閉まっているのに、灯りが揺れて影が揺れる。
セレスティアは足を止める。
遠く、壁の向こうから聞こえたのは――笛の短い音。
ひゅっ、と乾いた音で途切れるような合図。
ひどく嫌な胸騒ぎがした。
「あの笛……どこかで……」
気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
マリエルが以前言っていた。
内通者が“受け渡しの合図”に使っていたという笛の色と音。
あれに、似ている。
セレスティアは振り返る。
夜の城は静まり返り、誰もいない。
それでも確かに聞こえた。
たった一度。
夜の静けさを裂くように。
何かが動き始めている。
まるでこちらの出方を伺うように、静かに、慎重に。
セレスティアはぎゅっと拳を握りしめ、すぐ近くの侍女を呼ぶために駆け出した。
「ルシア――! 聞きたいことがあるの!」
夜の城で、またひとつ影が蠢いた。
微かな笛の音を合図に。




