第106話「悪女は、旅立ちの朝にため息をつく」
出発の日の朝は、驚くほど空が高かった。
雲ひとつない青空だった。
王都を囲む城壁の向こうまで、どこまでも澄み渡っている。
そんな絶好の旅日和を見上げながら、セレスティアは深々とため息をついた。
「帰りたい」
まだ出発していない。
屋敷の正門前。
荷馬車と護衛騎士たちが整列し、使用人たちが最後の確認をしている。
誰が見ても万全の出立風景だった。
ただ一人、当人だけが不満そうな顔をしている。
「出発前から帰宅願望を口にする人、初めて見ました」
隣でルシアが呆れたように言った。
「だって面倒な予感しかしないもの」
「それは私も同意します」
珍しく意見が一致した。
セレスティアはもう一度空を見上げる。
本来なら。
公爵令嬢が地方視察に同行するなど、そう頻繁にあることではない。
ましてや今の彼女は、表向きには王政改革の中心から距離を置いている立場だ。
なのに。
なぜこうなったのか。
考えるだけで頭が痛い。
「お待たせした」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、王太子が馬上から軽く手を挙げていた。
以前より簡素な旅装束。
視察だからだろう。
王族らしい華美さは抑えられている。
だが、それでも人目を引くのだから不公平だ。
「遅い」
セレスティアは即座に言った。
「予定時刻の三分前だぞ」
「私の中では遅いの」
「理不尽だな」
王太子は苦笑した。
そのやり取りを見ていた護衛騎士たちが、どこか安心したような顔をしている。
最近、王太子は変わった。
以前ほど近寄りがたい空気がない。
だからだろうか。
周囲も自然と話しかけるようになっていた。
セレスティアはその様子を横目で見て、小さく眉を上げる。
「何だ」
王太子が気づいた。
「別に」
少しだけ言葉を選ぶ。
「前より、人に頼るようになったわね」
一瞬だけ沈黙。
王太子は視線を前へ向けた。
「そうしないと回らないと知ったからな」
その答えに、セレスティアは何も返さなかった。
どこかで聞いたような言葉だったからだ。
たぶん。
同じことを、自分も学び始めている。
「出発します!」
先導役の騎士が声を張る。
馬車が動き出した。
石畳を離れ、王都の大通りへ入る。
朝の街は活気に満ちていた。
商人。
職人。
通学途中の子どもたち。
皆、それぞれの一日を始めている。
そして――。
「あっ!」
誰かが声を上げた。
嫌な予感がする。
「セレスティア様だ!」
やっぱり。
「聖女様ー!」
「お気をつけてー!」
「帰ってきてくださいねー!」
次々と声が飛ぶ。
手を振る者までいる。
セレスティアは反射的に窓のカーテンを閉めた。
「嫌」
真顔だった。
ルシアが肩を震わせる。
「人気者ですねぇ」
「本当に意味が分からない」
セレスティアは額を押さえた。
悪役令嬢。
本来なら嫌われる存在。
少なくとも乙女ゲームではそうだった。
なのに現実はどうだ。
見送られている。
応援されている。
無事を祈られている。
どこで間違えたのだろう。
最初から全部かもしれない。
「顔がひどいですよ」
ルシアが言う。
「人生について考えてるの」
「諦めた方が楽ですよ」
「それは嫌」
即答だった。
悪女としての誇りだけは、なぜかまだ捨てられない。
そんなやり取りをしているうちに、馬車は王都の門へ近づいていく。
巨大な城壁。
重厚な門扉。
何度も見てきた景色だ。
だが今日は少し違って見えた。
門の向こうには、知らない土地が広がっている。
王都の外。
自分がまだ見ていない人々の暮らしがある。
そしてきっと。
王都とは違う悩みや問題がある。
セレスティアは無意識に、お守りへ触れていた。
出発前に貰った小さな石。
自分でも気づかないうちに持ってきていたらしい。
「意外ですね」
ルシアが視線を向ける。
「何が」
「ちゃんと持ってきたんだな、と」
セレスティアは少しだけ目を逸らした。
「……忘れただけよ」
「そういうことにしておきます」
ルシアは笑う。
その直後だった。
王都の門をくぐった馬車が、大きく揺れた。
舗装された街道へ出たのだ。
目の前に広がるのは、どこまでも続く春の平原。
風が吹く。
王都の空気とは違う匂いがした。
土と草と、遠い水辺の匂い。
セレスティアは窓の外を見つめる。
不安はある。
面倒ごとの予感もする。
きっと平穏な旅にはならない。
だが。
胸の奥で、小さく何かが動いた。
それが期待なのだと認めるには、まだ少しだけ時間が必要だった。




