第107話「悪女は、歓迎されたくない」
王都を出て半日。
街道は緩やかな丘陵地帯へと姿を変えていた。
窓の外には麦畑が広がり、風が吹くたび金色の穂が波のように揺れる。
王都では見られない景色だ。
のどかで。
平和で。
そして――。
「暇ね」
セレスティアは馬車の窓枠に頬杖をついた。
隣のルシアが本を閉じる。
「出発してから三時間前にも同じこと言ってましたよ」
「だって暇なんだもの」
「平和な旅で結構じゃないですか」
「不安になるのよ」
「何故です?」
「ここまで何も起きないと、後でまとめて来そうだから」
ルシアは少し考えた。
「否定できませんね」
「でしょう?」
嫌な一致だった。
その時。
前方から馬の駆ける音が聞こえてきた。
護衛騎士の一人が馬車へ近づいてくる。
「殿下」
王太子の馬が横についた。
「何かあったか」
「次の村から使者です」
使者。
セレスティアの眉がぴくりと動く。
嫌な単語だった。
非常に嫌な単語だった。
「歓迎の準備が整ったとのことです」
騎士の報告に、王太子は軽く頷く。
「そうか」
そして。
セレスティアは固まった。
「……今なんて?」
「歓迎の準備だそうだ」
王太子が自然に答える。
「何故?」
「視察だからな」
「何故?」
「二回聞いたぞ」
セレスティアは本気で理解できなかった。
視察だ。
歓迎される側ではない。
見る側だ。
なのに歓迎?
それはおかしい。
非常におかしい。
「嫌な予感がする」
「最近そればかりだな」
王太子が苦笑する。
だがセレスティアの勘は当たる。
大抵の場合。
しかも最悪の方向で。
村へ到着したのは夕方近くだった。
小さな農村だった。
人口は数百人程度だろう。
畑と牧草地に囲まれた、ごく普通の村。
――のはずだった。
「何これ」
村の入口で、セレスティアは真顔になった。
歓迎旗。
花飾り。
楽団。
そして。
巨大な横断幕。
そこには堂々と書かれていた。
『聖女セレスティア様歓迎』
セレスティアは無言になった。
ルシアは顔を逸らした。
肩が震えている。
笑っている。
絶対笑っている。
「説明して」
「私も知りません」
「嘘ね」
「予想はしてました」
「裏切り者」
村人たちは大歓声だった。
「聖女様ー!」
「ようこそ!」
「お会いできて光栄です!」
逃げたい。
本気で。
今すぐ馬車を反転させたい。
だが無理だった。
村長らしき老人が前へ出てくる。
白髪混じりの温厚そうな男だ。
「ようこそお越しくださいました」
深々と頭を下げる。
「王太子殿下。そしてセレスティア様」
「歓迎感謝する」
王太子が応じる。
セレスティアは応じない。
横断幕を見ていた。
まだ見ていた。
「何故あれを作ったのかしら」
「村の若者たちが頑張りまして」
村長が嬉しそうに答える。
違う。
そういう話ではない。
だが、その時だった。
「セレスティア様!」
人混みの中から、小さな男の子が飛び出してきた。
十歳くらいだろうか。
両手いっぱいに何かを抱えている。
花だ。
野花を束ねたものだった。
「これ!」
差し出される。
満面の笑顔で。
セレスティアは一瞬言葉を失った。
王都では慣れ始めていた。
だが地方では初めてだった。
自分を知るはずのない人たちから向けられる好意。
「……何故?」
思わず聞いてしまう。
少年は首を傾げた。
「何故?」
「何故、私に花を?」
少年は不思議そうな顔をした後。
当たり前みたいに言った。
「だって助けてくれたから」
セレスティアの記憶を探る。
知らない。
会ったこともない。
「初対面よね」
「うん!」
「なら助けてないでしょう」
少年はきょとんとした。
そして。
「でも、お父さんは助かったよ?」
静かに言った。
「去年の飢饉の時」
周囲の空気が少し変わる。
村人たちが静かになる。
「王都から来た支援で助かったんだ」
少年は笑う。
「みんな言ってた」
その視線がまっすぐセレスティアへ向く。
「セレスティア様が頑張ったんだって」
胸の奥で何かが止まった気がした。
飢饉。
確かにあった。
予算を捻じ曲げた。
会議で暴れた。
貴族たちと喧嘩した。
全部、嫌々だった。
面倒だった。
腹も立った。
けれど。
その先にいた人たちの顔など、一度も見たことがなかった。
数字だった。
報告書だった。
統計だった。
助かった人数だった。
だが。
今、目の前にいる。
その数字の一人が。
「……そう」
それしか言えなかった。
少年は嬉しそうに花束を押し付けてくる。
「だから歓迎!」
無邪気だった。
何の計算もない。
打算もない。
ただ感謝だけだった。
セレスティアはゆっくり花束を受け取る。
野花の匂いがした。
王都の高価な花とは違う。
少し土の匂いが混じる。
その時。
王太子が小さく呟いた。
「見たかったのは、こういうことだ」
セレスティアは返事をしない。
できなかった。
夕陽が村を赤く染めている。
歓声はまだ続いている。
なのに。
なぜか胸の奥だけが静かだった。
そして彼女は知らない。
この村が、今回の旅の始まりに過ぎないことを。
村人たちの笑顔の裏で、既に一つの異変が静かに進行していることを。
王都には届いていない問題が。
この地方には確かに存在していた。
そしてその異変は、今夜――セレスティア自身の前に姿を現すことになる。




