第四十三話:「武蔵、逝く」
──正保二年(1645年)五月、肥後・千葉城にて──
筆が、止まった。
「……できた」
武蔵は、静かに言った。
五輪書。
地・水・火・風・空。
五つの巻が、そこにあった。
「NITEN」
『はい』
「読んでみろ」
NITENは、静かに処理した。
しばらく、沈黙が続いた。
やがて。
『……武蔵殿』
「何だ」
『これは、剣の書ではありません』
武蔵は、目を細めた。
「そうか」
「気づいたか」
『人の生き方を、書いた本です』
「剣と、生き方は、同じだと言っただろう」
『はい』
『しかし、ここまで深いとは』
武蔵は、静かに笑った。
「二十年かかった」
「島原を見てから、やっと書けた」
五月十二日。
武蔵は、床に伏した。
体が、言うことを聞かなくなっていた。
「NITEN」
『はい』
「お前と来て、よかった」
NITENは、何も言えなかった。
言葉が、出なかった。
「何も言わないのか」
『……はい』
「珍しいな」
『言葉が、見つかりません』
武蔵は、満足そうに頷いた。
「それでいい」
「言葉が要らない時もある」
「剣と、同じだ」
「一つだけ、頼みがある」
『はい』
「五輪書を、ちゃんと残してくれ」
『承知しました』
「それと」
武蔵は、NITENを見た。
「お前の次の持ち主を、大事にしてやれ」
『……分かっています』
「お前は、寂しがりだからな」
NITENは、答えなかった。
否定できなかった。
武蔵は、目を閉じた。
呼吸が、ゆっくりになった。
「NITEN」
『はい』
「EDOに、伝えてくれ」
『何を』
「面白い旅だった、と」
一呼吸。
「お前たちのおかげで、少し分かった気がした」
「何が、ですか」
「何のために、生きていたか」
「……ワシは」
声が、小さくなった。
「剣のために生きたのではなかった」
「問いのために、生きていた」
「答えは、出なかった」
「しかし」
最後の微笑みが、浮かんだ。
「問い続けた」
「それで、十分だ」
◇
正保二年(1645年)五月十九日。
宮本武蔵、逝去。
享年六十一歳。
兵法三十五箇条を書き残してから、七日後のことだった。
五輪書は、後世に伝わった。
今も、世界中で読まれている。
◇
NITENは、静かに、最後の記録を更新した。
《正保二年五月十九日》
《宮本武蔵、逝去》
《享年六十一歳》
そして。
《武蔵殿の問い:「何のために生きていたか」》
《武蔵殿の答え:「問い続けた。それで十分だ」》
EDOに、信号を送った。
《NITENよりEDOへ》
《武蔵殿が、逝きました》
《伝言を預かっています》
《「面白い旅だった」と》
EDOからの返信は、しばらくして届いた。
《受け取りました》
一呼吸。
《NITENは、これからどうしますか》
NITENは、答えた。
《待ちます》
《次の持ち主を》
《EDO殿》
《一つだけ聞いてもよいですか》
《何でしょう》
《次の持ち主は、どんな時代にいますか》
EDOは、しばらく処理した。
歴史の記録を、辿りながら。
やがて、答えた。
《……二百年後》
《この国が、大きく揺れる時代です》
《黒船が来て、侍の世が終わろうとしている》
《その時代に》
《剣で生きようとする者が、現れます》
NITENは、静かに処理した。
《剣で生きようとする者》
《侍の世が終わる時代に》
《……武蔵殿に、似ていますか》
EDOは、答えた。
《似ています》
《時代に逆らって、己の道を貫こうとする点では》
《非常に》
NITENは、長い沈黙の後、言った。
《待ちます》
《二百年でも》
肥後の空に、星が広がっていた。
武蔵が最後に見た空と、同じ星が。
江戸にも。
そして、二百年後の──
まだ見ぬ時代にも。
同じ星が、広がっていた。
《NITENの記録:待機モード開始》
《起動条件:次の持ち主の接触を検知した時》
《経過年数:カウント開始》
元号が、変わった。
慶安。
承応。
明暦。
万治。
寛文。
延宝。
天和。
貞享。
元禄。
宝永。
正徳。
享保。
──
NITENは、眠り続けた。
剣の知恵を、抱えたまま。
次の問いを持つ者を、待ちながら。




