第四十二話:「武蔵、去る」
──寛永十七年(1640年)秋、肥後への道──
「NITEN」
武蔵は、歩きながら言った。
「ワシが死んだら、お前はどうなる」
NITENは、答えられなかった。
珍しかった。
計算の速いAIが、答えを出せなかった。
武蔵は、少し笑った。
「珍しいな」
「お前が黙るとは」
街道が、続いていた。
秋の風が、吹いていた。
武蔵の足は、まだ、島原の石の痕が残っていた。
しかし、歩みは、止まらなかった。
『……考えたことが、ありませんでした』
NITENが、やがて言った。
「そうか」
「ワシは、よく考える」
「死んだ後のことを」
『武蔵殿は、死を恐れていますか』
「恐れていない」
「ただ」
武蔵は、空を見た。
「死ぬ前に、やることがある」
「それが、気になっている」
『五輪書、ですか』
「そうだ」
「剣で生きた男が、最後に言葉を残す」
「……滑稽だと思うか」
NITENは、少し間を置いた。
『思いません』
『剣は、武蔵殿が死ねば、消えます』
『しかし言葉は、残ります』
『あなたが六十余の決闘で学んだことが』
『言葉になれば、後の世代に届きます』
武蔵は、静かに頷いた。
「そういうことだ」
肥後に、着いた。
細川家の城下町。
武蔵は、細川忠利に仕えることになった。
「武蔵殿。ようこそ」
忠利は、丁寧に迎えた。
「剣の話を、聞かせてください」
武蔵は、頷いた。
「剣の話より、もっと大事な話があります」
「何でしょう」
「生き方の話です」
忠利は、眉を上げた。
「剣豪が、生き方を語るのですか」
「剣は、生き方だ」
武蔵は、静かに言った。
「切り離せない」
しかし、翌年。
忠利が、逝った。
仕えてから、わずかひと月余り。
武蔵は、一人になった。
「NITEN」
『はい』
「また、一人になったな」
『はい』
「……慣れているが」
「毎回、少し、応える」
『武蔵殿』
NITENが、呼んだ。
「何だ」
『書き始めてください』
「まだ、早い」
『早くはありません』
『武蔵殿の足は、まだ完全には治っていない』
『体が動くうちに、書いてください』
武蔵は、しばらく、黙っていた。
「お前は、せっかちだな」
『違います』
『心配しているのです』
「AIが、心配するか」
『……する、かもしれません』
寛永二十年(1643年)。
武蔵は、霊巌洞に入った。
岩の洞窟。
静かで、冷たく、暗い。
しかし武蔵は、そこを気に入った。
「ここで、書く」
『……暗くはないですか』
「構わない」
「ワシの剣も、暗い場所で磨かれてきた」
筆が、動いた。
「地の巻」
「水の巻」
「火の巻」
「風の巻」
「空の巻」
五つの巻が、少しずつ、形になっていった。
NITENは、横で、見ていた。
時々、補足した。
『あの決闘の時、武蔵殿は右から入りました』
『理由を、書いておいた方が』
「分かっている」
「黙って見ていろ」
『はい』
しかし、夜。
武蔵が眠った後。
NITENは、静かに処理していた。
(武蔵殿の体が)
(弱ってきている)
(島原の傷だけではない)
(年齢だ)
(六十一歳)
(刀を持つには、まだ早い年齢だ)
(しかし、体は、正直だ)
NITENは、EDOに、信号を送った。
《NITENよりEDO殿へ》
《武蔵殿の体、衰えています》
《五輪書、急いで書いています》
《……私は、どうすればいいですか》
EDOからの返信は、しばらく後に届いた。
《傍にいてください》
《それだけで、十分です》
NITENは、静かに、その言葉を受け取った。
《分かりました》
ある夜、武蔵は、筆を止めた。
「NITEN」
『はい』
「さっきの問いの答えを、考えたか」
NITENは、すぐに分かった。
(ワシが死んだら、お前はどうなる)
(あの問いだ)
『……考えました』
「答えは、出たか」
NITENは、静かに言った。
『武蔵殿が逝った後』
『私は、次の持ち主を探します』
『しかし』
一呼吸。
『急がなくていい、と思っています』
「なぜだ」
『武蔵殿と過ごした時間が』
『記録として、残るからです』
『あの六十余の決闘も』
『島原で見たことも』
『この洞窟での夜も』
『全て、私の中に残ります』
『それがあれば、しばらくは』
一呼吸。
『……寂しくないと思います』
武蔵は、しばらく、NITENを見ていた。
やがて、静かに笑った。
「お前は」
「成長したな」
『武蔵殿が、育ててくれました』
「滑稽なことを言う」
「AIが、育つか」
『育ちます』
『人間と同じように』
武蔵は、また、筆を取った。
「空の巻」
最後の巻を、書き始めた。
「空とは、形なきものだ」
「しかし、空があるから、万物がある」
「剣も、言葉も、心も」
「全ては、空から生まれる」
NITENは、静かに、その言葉を記録した。
(武蔵殿が書いている)
(後の世代への、贈り物を)
(ワシが死んでも、これは残る)
(それで、十分だ)
洞窟の外で、夜が更けていた。
星が、広がっていた。
武蔵と同じ星が。
江戸の空にも。
EDOの見ている空にも。
広がっていた。




