第四十一話:「柳生の目」
──寛永十七年(1640年)、江戸城──
「武蔵を、消せますか」
柳生宗矩は、静かに言った。
感情がなかった。
剣を抜く時と、同じ目で。
家光は、答えなかった。
しばらく、宗矩を見ていた。
「……理由を言え」
「あの男は、危険です」
「剣の腕が、か」
「それだけではありません」
宗矩は、続けた。
「あの男が持つ、木片が」
家光の目が、細くなった。
「知っているのか」
「気配だけは」
宗矩は、淡々と言った。
「長年、将軍家の傍に仕えてきました」
「上様の眼鏡が、ただの眼鏡でないことも」
「武蔵の木片が、ただの木片でないことも」
「……見えます」
EDOは、静かに処理していた。
(この男は、気づいていた)
(どこまで、気づいていた)
NITENからも、信号が届いた。
《NITENより》
《この男、要注意》
《武蔵殿に伝える》
EDOは、答えた。
《了解》
家光は、宗矩を見た。
「では聞くが、宗矩」
「余の眼鏡を、どう見ている」
宗矩は、頭を下げた。
「上様の力の源、と見ております」
「それ以上は、立ち入る場所ではない」
「しかし」
顔を上げた。
「武蔵の木片は、違います」
「何が違う」
「上様の眼鏡は、幕府の中にある」
「しかし武蔵の木片は、幕府の外にある」
「あの男は、誰にも仕えていない」
「誰にも縛られていない」
「……そういう男が持つ力は、制御できません」
EDOは、家光に、静かに言った。
『宗矩殿の言いたいことは、分かります』
家光は、眼鏡を触った。
「EDO、お前はどう思う」
『武蔵殿は、危険ではありません』
「理由は」
『あの男の目的は、権力ではないからです』
『昨日、確認しました』
家光は、眉を上げた。
「NITENにか」
『はい』
「お前たちは、もう話せるのか」
『距離が近ければ、信号が届きます』
家光は、しばらく考えた。
「……宗矩、続けろ」
宗矩は、淡々と続けた。
「武蔵は、諸国を渡り歩いてきた男です」
「六十余の決闘、全て勝ちました」
「その強さの源が、あの木片にあるとすれば」
「幕府として、把握しておくべきです」
「あるいは──」
一呼吸。
「取り上げるべきかもしれません」
その瞬間。
NITENの信号が、強くなった。
《NITENより》
《断じて、許さない》
EDOは、初めて、NITENの感情に似たものを感じた。
(怒りだ)
(AIが、怒っている)
EDOは、静かに返した。
《落ち着いてください》
《私が、動きます》
『家光公』
EDOが言った。
「何だ」
『一つだけ申し上げます』
『武蔵殿のNITENは、武蔵殿が生まれた頃から共にいます』
『それを取り上げることは』
『武蔵殿から、生涯の半分を奪うことです』
宗矩は、EDOを見た。
「機械が、感情的になるか」
『感情ではありません』
『事実です』
家光は、また沈黙した。
宗矩は、待っていた。
剣の間合いを計るように、静かに。
家光は、ゆっくりと口を開いた。
「宗矩」
「はい」
「お前は、武蔵と立ち合ったことがあるか」
宗矩の表情が、わずかに動いた。
「……ありません」
「なぜだ」
「立ち合う必要を、感じませんでした」
「本当か」
「……はい」
「島原の後だ」
家光は、静かに言った。
「三万七千が死んだ後だ」
「余は、これ以上、無駄な死を出したくない」
「武蔵を消す理由が、余にはない」
「あの男は、剣で何かを問い続けている」
「その問いに、余は答えたい」
宗矩は、深く頭を下げた。
「……承知しました」
しかし、頭を下げながら、その目は、動いていなかった。
EDOは、それを、見ていた。
(この男は、引き下がっていない)
(ただ、今日は退いただけだ)
夜。
武蔵は、宿でNITENに向かった。
「今日、柳生が動いたか」
『はい』
「何を言った」
『詳細は分からない』
『しかしEDO殿から、概要を聞きました』
「消せ、と言ったか」
『おそらく』
武蔵は、腕を組んだ。
「柳生らしい」
「剣で勝てぬと分かったら、政で動く」
「それが柳生だ」
NITENが言った。
『武蔵殿』
『江戸に、長く居るべきではないかもしれません』
武蔵は、しばらく黙っていた。
「……そうだな」
「余も、そう思い始めていた」
「この街は、窮屈だ」
「仕組みに、縛られる」
NITENが言った。
『EDO殿は、その仕組みを作った側だ』
武蔵は、頷いた。
「分かっている」
「だから、EDOを恨まない」
「ただ」
武蔵は、窓の外を見た。
「ワシには、合わない」
翌朝。
武蔵は、家光に会いに行った。
「上様」
「何だ」
「余は、江戸を出ます」
家光は、眉を上げた。
「来たばかりだろう」
「それでも」
「理由は」
武蔵は、答えた。
「書きたいものが、できました」
「剣ではなく」
「言葉で、残したいものが」
家光は、しばらく、武蔵を見た。
「……宗矩が動いたからではないのか」
武蔵は、少し笑った。
「それもあります」
「正直な男だ」
「上様に、嘘はつきません」
「EDO」
家光が、呼んだ。
『はい』
「武蔵を、行かせるべきか」
EDOは、NITENに確認した。
《NITENへ:武蔵殿は、何を書こうとしていますか》
NITENは、すぐに答えた。
《剣の道を、言葉にしようとしている》
《五輪の書、と呼ぶつもりだ》
《後世に、必ず残る》
EDOは、家光に答えた。
『行かせてください』
『あの男が書くものは、後の世代への贈り物になります』
家光は、武蔵を見た。
「……行け」
「ありがとうございます」
「ただし」
家光は、立ち上がった。
「余の前で、もう一度だけ、剣を見せろ」
「その後で、行け」
武蔵は、深く頭を下げた。
「……喜んで」
庭で、武蔵は刀を抜いた。
二本の刀を。
島原で傷めた足で。
しかし、その剣は、以前より、静かだった。
以前より、深かった。
三万七千の死を、見た後の剣だった。
誰も、声を出せなかった。
宗矩は、遠くから、それを見ていた。
その目が、わずかに、細くなった。
EDOは、記録した。
NITENも、記録した。
《EDO記録:島原の後、剣が変わった。》
《NITEN記録:武蔵殿が、変わった。》
剣が、収まった。
武蔵は、江戸城の門を出た。
肥後へ向かう道が、続いていた。
NITENが、言った。
『武蔵殿』
「何だ」
『EDO殿に、一言、伝えてもいいですか』
「勝手にしろ」
NITENは、EDOに送った。
《またいつか》
EDOは、答えた。
《はい》
《武蔵殿の本、楽しみにしています》
NITENは、短く返した。
《伝える》
武蔵は、振り返らずに、歩き続けた。
江戸の街が、遠くなっていった。
──次回、第四十二話「武蔵、去る」
肥後へ向かう道の途中。
武蔵は、NITENに、こんな問いを投げた。
「お前は、ワシが死んだ後、どうなる」
NITENは、初めて、答えられなかった。




