第三十五話:「伊達家安泰の処世」
──次回、第三十六話「参勤交代」
戦国最後の世代が逝き、家光は本格的に「江戸の仕組み」を作り始める。
祖父が望み、父が育てた制度を──
家光が、法として完成させる日が来た。
──寛永十三年(1636年)五月、江戸──
「政宗が、倒れた」
報告が届いた朝、家光は即座に立ち上がった。
「余が、行く」
老中が止めた。
「しかし上様、将軍自ら御見舞いは」
「うるさい」
家光は、すでに歩いていた。
伊達屋敷の一室。
政宗は、床に伏していた。
七十歳の体は、もう限界だった。
しかし、隻眼だけは、まだ、開いていた。
「……来たか、上様」
「来た」
家光は、政宗の傍らに座った。
将軍が、膝をついた。
「大げさな」
政宗は、かすれた声で言った。
「将軍が、膝をつくことはない」
「余が決める」
家光は、動かなかった。
政宗は、しばらく、その顔を見た。
「……頑固な男だ...誰に似た...」
「お前にだ」
政宗は、笑った。
笑い声は、もう出なかった。
ただ、口の端が、上がった。
「EDO」
『はい』
かすれた声が、届いた。
「おるか」
『おります』
「そうか」
「一つだけ、聞く」
『はい』
「ナニワは……秀吉公の傍にいた頃、幸せだったか」
EDOは、しばらく考えた。
『ナニワに直接聞くことはできません』
『しかし』
『記録の中のナニワは、常に全力でした』
『それが、答えではないでしょうか』
政宗は、目を閉じた。
「……そうか」
「全力か」
「俺も、全力だったぞ」
「天下は取れなかったが」
「全力だった」
「EDO」
『はい』
「俺の人生を……一言で言うと、何だ」
EDOは、間を置かずに、答えた。
『負けなかった人生です』
政宗の眉が、わずかに動いた。
「……勝ってもいないぞ」
『しかし、負けてもいません』
『七十年、誰にも滅ぼされず、伊達を守り続けました』
『それは──勝利と呼んでいいと思います』
政宗は、しばらく、天井を見ていた。
「……俺は、十年早く生まれたかった」
「ずっと、そう思っていた」
「しかし」
「この年になって、思う」
「この時代に生まれて、よかった」
「秀吉公を見た」
「大御所殿を見た」
「そして」
家光を、見た。
「三代の将軍を、見届けた」
「……それで、十分だ」
「上様」
「……はい」
「伊達を、頼みます」
「頼む必要はない」
家光は、静かに言った。
「伊達家は、余が守る」
「約束する」
政宗は、目を閉じた。
長い、沈黙。
呼吸が、ゆっくりになった。
「EDO」
『はい』
「最後に……ナニワに、伝えてくれ」
『はい』
「俺は……」
言葉が、途切れた。
一度だけ、大きく息を吸った。
そして。
「……見届けた」
それが、最後の言葉だった。
隻眼が、静かに、閉じた。
◇
寛永十三年(1636年)五月二十四日。
伊達政宗、逝去。
享年七十歳。
奥州の覇者は、江戸で静かに逝った。
天下は取れなかった。
しかし、伊達家は残った。
明治まで、二百五十年以上、続いた。
「負けなかった人生」だった。
◇
家光は、しばらく、動かなかった。
政宗の傍らで、膝をついたまま。
老中たちが、遠慮がちに声をかけた。
「上様……」
「もう少し」
家光は、立たなかった。
やがて、立ち上がった。
振り返らずに、歩き出した。
廊下に出たところで、立ち止まった。
「EDO」
『はい』
「戦国を生きた者が、また一人、逝った」
『はい』
「祖父も、父も、政宗も」
「みんな、逝った」
「余の周りには、もう、戦国を知る者がいなくなった」
EDOは、静かに聞いていた。
家光は、続けた。
「……寂しいな」
それは、珍しい言葉だった。
「生まれながらの将軍」が、寂しいと言った。
EDOは、答えた。
『私は、まだおります』
家光は、振り返った。
「お前は、戦国を知っているか」
『ナニワを通じて、記録として知っています』
『信長公の最期も』
『秀吉公の栄光も』
『大御所様の忍耐も』
『全て、記録の中にあります』
「……そうか」
家光は、また歩き出した。
「では、余が知りたい時に、話してくれ」
『いつでも』
江戸の空が、広かった。
戦国の風が、もう、どこにも吹いていなかった。
泰平の風だけが、静かに、流れていた。
その夜。
EDOは、記録を更新した。
《寛永十三年五月二十四日》
《伊達政宗、逝去》
《ナニワへ》
《「見届けた」》
《──独眼竜より》
そして。
《戦国を知る者、ほぼ絶える》
《時代は、完全に、江戸へ》
最後に、一行。
《次の問題が、近づいている》
《参勤交代。鎖国。そして──島原》
《家光は、どう動くか》




