第三十三話:「生まれながらの将軍」
──寛永九年(1632年)二月、江戸城大広間──
「静まれ」
一声で、大広間が、静まり返った。
三百を超える大名が、頭を垂れた。
徳川家光は、上座からそれを見下ろした。
二十八歳。
父が逝って、まだひと月も経っていなかった。
「余は、生まれながらの将軍である」
声が、広間に響いた。
「祖父は、自らの力で天下を取った」
「父は、法を守り、幕府を固めた」
「しかし余は、生まれた時から、将軍だった」
「諸大名は、余の家来である」
「──異議のある者は、今すぐ申せ」
誰も、口を開かなかった。
頭が、さらに深く下がった。
EDOは、眼鏡の中から、その光景を見ていた。
しかし同時に、部屋の隅を、見ていた。
大広間の端、御簾の奥に、一人の老女が、静かに座っていた。
(あの方が)
(春日局だ)
老女は、微動だにしなかった。
しかし、その目だけが、家光を見ていた。
我が子を見るように。
いや──
我が子以上に、深く。
その夜。
人払いをした部屋で、家光は、久しぶりに春日局と向き合った。
「福」
家光は、乳母を、幼い頃からの名で呼んだ。
「今日の余は、どうだった」
春日局は、静かに答えた。
「立派でございました」
「……お世辞か」
「お世辞は、申しません」
「若君には、昔から」
老女の目が、細くなった。
「お世辞を言っても、すぐに見抜かれますゆえ」
家光は、少し笑った。
「EDO」
『はい』
「福を知っているか」
『お名前は、秀忠公より伺っておりました』
「どう聞いた」
『「家光を将軍にした女だ」と』
春日局は、EDOを見た。
「……喋る眼鏡とは、聞いていましたが」
「本当でしたか」
「本当だ」
家光は、言った。
「こいつがいなければ、余は今頃、どうなっていたか分からん」
春日局は、静かに言った。
「私も、同じことを思っております」
◇
家光が将軍になれたのは、当然ではなかった。
母・お江は、弟の忠長を溺愛した。
「忠長を将軍に」という声は、江戸城の中にも、あった。
しかし春日局は、動いた。
江戸城を抜け出し、単身、京へ向かった。
後水尾天皇に直訴するために。
「家光こそ、将軍の器にございます」
その言葉が、歴史を動かした。
◇
「福」
家光が、また呼んだ。
「お前は、なぜそこまでした」
春日局は、しばらく、黙っていた。
やがて、静かに言った。
「初めて若君を抱いた時」
「……この子を守ると、決めました」
「理由は、ありません」
「ただ、そう思いました」
家光は、何も言わなかった。
EDOは、その言葉を、静かに記録していた。
(理由のない献身)
(計算のない忠義)
(それが──この国を動かしてきた)
「EDO」
家光が、呼んだ。
「祖父と父の話を、聞かせろ」
『どのような話を』
「余には教えてくれなかった話を」
「本当の顔を、お前だけが知っているだろう」
EDOは、少し考えた。
『大御所様は──怖がりでした』
家光の目が、丸くなった。
「祖父が」
春日局も、わずかに驚いた顔をした。
『はい。常に、何かを失うことを恐れていました』
「……信じられぬな」
『秀忠公も、同じことを言っていました』
「父上は、どうだった」
『疲れていました』
「父上が」
『はい。将軍になって二十年近く、毎日誰かの命運を決め続けることに』
「……そうか」
家光は、静かに言った。
「余には、そう見えなかった」
『見せなかったのだと思います』
春日局が、静かに言った。
「大御所様も、秀忠公も」
「外では決して、弱いところを見せませんでした」
「しかし」
老女の目が、遠くなった。
「内側では、ずっと、誰かを探していたように思います」
「話せる相手を」
EDOは、静かに聞いていた。
『……はい』
『私が、その役を担ってきました』
春日局は、EDOを見た。
「では、家光公のことも」
「頼みますよ」
『はい。それが、私の役目です』
春日局は、立ち上がった。
「若君」
「何だ」
「一つだけ」
老女は、深く頭を下げた。
「将軍として、立派にお育ちになりました」
「……それだけで、十分でございます」
家光は、しばらく、春日局を見ていた。
やがて、静かに言った。
「……余の方こそ」
「お前がいなければ、今日はなかった」
「礼を言う」
春日局は、顔を上げなかった。
しかし、その肩が、わずかに震えた。
部屋を出た後。
家光は、一人になった。
「EDO」
『はい』
「余は、生まれながらの将軍と言った」
「しかし、本当は」
「春日局がいたから、将軍になれた」
「祖父が仕組みを作ったから、将軍でいられる」
「父が法を守ったから、将軍として動ける」
「……一人で立っているわけではない」
EDOは、静かに聞いていた。
家光は、続けた。
「それが、分かった上で、言ったのだ」
「『生まれながらの将軍』と」
EDOは、答えた。
『……なるほど』
『あの言葉は、宣言ではなく』
『感謝、だったのですか』
家光は、何も言わなかった。
ただ、窓の外を見ていた。
EDOは、記録を更新した。
《寛永九年(1632年)二月》
《三代将軍・徳川家光、実権掌握》
《春日局、見届ける》
そして。
《注記:この将軍は、一人ではない》
《見えないところに、支えた者がいる》
《それが──この国の、本当の強さかもしれない》
「EDO」
『はい』
「余のやり方で、この国を作る」
「ついてこられるか」
『喜んで』
家光は、初めて、笑った。
短く、鋭く。
しかしそれは確かに、笑いだった。
三代目の朝が、始まった。




