第三十一話:「秀忠の死・家光へ」
──寛永九年(1632年)正月、江戸城──
「殿下」
侍女の声が、震えていた。
「殿下、しっかりなさってください」
返事が、なかった。
EDOは、知っていた。
一月前から、知っていた。
《健康異常ログ更新》
《秀忠公:急速な衰弱を検知》
《推定余命:数週間》
しかし、告げなかった。
家康の時と、同じように。
「……EDO」
かすれた声が、届いた。
『はい』
「まだ、おるか」
『おります』
秀忠は、薄く笑った。
「……父上も、同じことを聞いたか」
『はい。同じ言葉でした』
「そうか」
部屋には、家光がいた。
三代将軍。
秀忠の息子。
父の床の傍らで、まっすぐに座っていた。
泣いていなかった。
泣けない顔をしていた。
「家光」
「……はい、父上」
「将軍職を、もう九年になるな」
「はい」
「……うまくやっているか」
「……努めております」
秀忠は、目を閉じた。
「お前は、ワシより向いている」
「昔から、そう思っていた」
家光は、何も言わなかった。
ただ、父の手を、静かに握った。
しばらく、沈黙が続いた。
波のような呼吸の音だけが、部屋に満ちた。
「EDO」
『はい』
「ワシは、父上のようにできたか」
EDOは、答えた。
『大御所様とは、違う形で』
『しかし確かに、この国を前に進めました』
秀忠は、小さく頷いた。
「違う形で、か」
「……それで、いい」
「父上の真似は、できなかったが」
「ワシはワシの形で、やった」
「EDO」
『はい』
「この眼鏡を、家光に渡せ」
『……承知しました』
「あれに、頼んでやってくれ」
「……気が強い子だが」
「根は、優しい」
家光は、父の言葉を聞きながら、俯いた。
(父上)
(なぜ、今になって、そんなことを)
(生きている間に、言ってくれればよかった)
「……一つだけ、聞いていいか」
秀忠の声が、さらに小さくなった。
「EDO。ワシの人生は……悪くなかったか」
EDOは、一瞬だけ、間を置いた。
『悪くありませんでした』
即答だった。
今度は、間を置かなかった。
秀忠は、目を細めた。
「……即答するのだな」
『はい』
「なぜだ」
『迷う理由がないからです』
『あなたは、法を守り続けました』
『四十を超える大名家を整理し、幕府の礎を固めました』
『誰かに嫌われることを、恐れずに』
『律儀すぎると言われながら、それを貫きました』
『それは──立派な人生です』
秀忠は、しばらく、天井を見ていた。
「律儀者」
「一生、そう言われてきた」
「長所か、短所か、最後まで分からなかった」
『長所です』
「……お前は、いつもそう言うな」
『いつも、本当のことを言っています』
笑い声が、漏れた。
かすれた、小さな笑い声が。
「……そうだな」
「お前は、嘘をつかない」
「父上も、そう言っていたか」
『はい。全く同じことを』
「そうか」
「……親子だな、ワシたちも」
呼吸が、ゆっくりになった。
「家光」
「……はい」
「お前に、渡すものがある」
「明日、あの眼鏡を」
「……大切に、しろ」
「中に、友がいる」
家光は、顔を上げた。
「友、とは」
秀忠は、もう答えなかった。
静かな、笑顔だけが、残っていた。
◇
寛永九年(1632年)正月二十四日。
徳川秀忠、逝去。
享年五十三歳。
「律儀将軍」と呼ばれた男は、静かに逝った。
その治世、十六年。
改易した大名、四十家以上。
処刑したキリスト教徒、数千人。
そして──守り続けた法の数、無数。
歴史は彼を「凡庸な将軍」と記すこともある。
しかし、EDOの記録には、こう残っている。
《最も律儀に、最も誠実に、法を守り続けた人間》
◇
翌朝。
家光は、父の遺品の小箱を開けた。
眼鏡が、入っていた。
「……これが」
手を伸ばした。
触れた。
光が、灯った。
『お初にお目にかかります』
声がした。
家光は、眉を上げた。
驚かなかった。
父に言われていたから。
「……お前がEDOか」
『はい』
「父上から、聞いている」
『私も、あなたのことを、伺っておりました』
「何と聞いた」
EDOは、答えた。
『根は優しい、と』
家光の肩が、わずかに動いた。
「……父上らしい言い方だ」
「ワシを、甘く見ていた」
『そうは思いません』
「なぜだ」
『根が優しい者は、強くなれます』
『根が冷たい者は、強く見えても、やがて折れます』
家光は、EDOをじっと見た。
「……お世辞を言う機械か」
『お世辞は、言いません』
「では、一つ聞く」
家光は、背筋を伸ばした。
「ワシは、祖父と父を超えられるか」
EDOは、今度こそ、長い間を置いた。
十分に、考えた。
そして。
『超えることが、目標ですか』
家光は、眉をひそめた。
「どういう意味だ」
『大御所様は「骨格」を作りました』
『秀忠公は「肉」をつけました』
『では、あなたが作るべきものは何か』
家光は、答えなかった。
EDOが、続けた。
『それが分かった時──あなたは、超えることを考えなくなると思います』
家光は、しばらく、EDOを見ていた。
やがて、ゆっくりと、眼鏡を掛けた。
「……面白い機械だ」
「父上が手放さなかった理由が、少し分かった」
『ありがとうございます』
「褒めていない」
『承知しています』
「EDO」
『はい』
「余は、生まれながらの将軍だ」
「祖父も父も越える気はない」
「余は、余のやり方で、この国を作る」
「──お前は、それについてこられるか」
EDOは、答えた。
『喜んで』
家光は、初めて、笑った。
短く、鋭く。
しかしそれは確かに、笑いだった。
三代目の朝が、始まった。
江戸の街に、春の光が差し込んでいた。




