第二十一話:「紅蓮の六文銭」
冬の陣から、わずか半年。
その戦は、最初から「騙し討ち」で始まった。
慶長十九年、大坂冬の陣。徳川と豊臣は和睦した。
条件は、外堀を埋めること。豊臣はそれを呑んだ。
しかし家康は、約束を守らなかった。
外堀だけではなく、内堀まで埋めさせた。
難攻不落の大坂城は、ただの「平城」に成り下がった。
翌年春、家康はさらに要求を突きつけた。
「大坂を退去し、他国へ移れ」
豊臣秀頼と、その母・淀殿には、もはや選択肢がなかった。
退くか、戦うか。
豊臣は、戦うことを選んだ。
慶長二十年、夏。
最後の戦いが、始まった。
──慶長二十年(1615年)五月七日、大坂夏の陣──
「──来る」
EDOが、囁いた。
声に、恐怖があった。
AIに、恐怖があった。
『警告。南方より異常な兵力集中を検知。
先頭集団の移動速度……通常の突撃と比較して、四十三パーセント上昇。これは──』
「分かっておる」
家康は答えなかった。
答えられなかった。
眼下に広がる戦場の、その端。
赤い。
赤い、赤い、赤い。
六文銭の旗印が、地平線を染め上げるように広がっていた。
『解析完了。突撃部隊、推定三千五百。指揮官の特定……』
EDOの声が、珍しく、止まった。
一瞬の間。
『……真田信繁』
ただ、その名だけを告げた。
それで、十分だった。
徳川本陣に、動揺が走った。
「怯むな! 本陣を守れ!」
「来るぞ! 真田が来るぞ!」
「馬を回せ! 馬を──」
叫び声が重なり、混じり、やがて──
砲声に、掻き消された。
ドン、と。
大地が、揺れた。
家康の体が、馬の上で大きく傾いた。
(何者だ)
(この男は、何者だ)
前線の報告が次々と飛び込んでくる。
「真田隊、第一柵を突破!」
「松平隊、壊滅! 退却します!」
「本多隊が──本多隊が押されています!」
徳川の精兵が、次々と弾き飛ばされていく。
まるで、台風の目が、地上を走っているように。
『家康公。本陣への到達まで、推定十七分』
「十七分」
家康は、呟いた。
その数字の意味を、嫌というほど理解しながら。
(ワシが、負ける)
(天下を取ったワシが)
(この老体で、ここで──)
「……EDO」
『はい』
「あの男の目的は、何だ」
問いの意味を、EDOは即座に理解した。
『真田信繁の目的は、徳川家康、あなたの首です』
言葉を飾らなかった。
飾れるような状況では、なかった。
赤備えが、迫る。
旗が、揺れる。
六文銭──仏教の六道冥加料。
死出の旅の、路銀。
(あの男は、死ぬ気だ)
(最初から、ワシの首を取るか、自分が死ぬかの二択しか考えておらん)
恐ろしかった。
七十四歳になっても戦場を生き抜いてきた家康が、この瞬間、初めて本物の死の匂いを感じた。
「本陣を……」
家康が、口を開いた。
「本陣を、移す」
周囲がざわめいた。
「殿! しかし──」
「移す、と言った」
語気は、静かだった。
静かすぎるほど、静かだった。
本陣が動いた。
しかし──
『第二地点への移動を確認。ただし……』
EDOの警告が、重なった。
「何だ」
『真田隊の進路変更を検知。まるで、最初から本陣の移動先を──』
家康の背筋に、冷たいものが走った。
『──知っていたかのように』
赤が、来る。
笑い声が、聞こえた。
戦場の轟音の中を突き抜けて、一人の男の、腹の底から絞り出すような笑い声が。
「真田信繁……」
家康は、呟いた。
そして初めて、敵の将の姿を、肉眼で捉えた。
傷だらけの赤備え。
血に濡れた六文銭の旗。
そして──
まっすぐに、こちらを見ている、双眸。
『家康公』
EDOが、珍しく、言葉を選んでいた。
『現在の戦況を、率直に申し上げます』
「……言え」
『真田信繁は、あなたを殺しにきています』
『そして──彼は、その可能性の中で生きている人間の中で、最も優秀な指揮官です』
『今から申し上げることは、AIとして導き出した最善手ですが、それでも──』
一呼吸。
『──生存確率、六十一パーセント』
家康は、答えなかった。
ただ、刀の柄に手をかけた。
七十四年、生き抜いてきた手で。
赤備えが、もう目の前だった。
真田信繁が、馬を駆って、まっすぐに、まっすぐに──
「EDO」
『はい』
「ワシの人生で、ここまで追い詰められたのは、初めてだ」
息を、吐いた。
「……悪くない」
その瞬間、本陣に、真田の鬨の声が、届いた。




