新章 第二十話:「堀を埋めた嘘」
内堀まで、埋まっていた。
豊臣の使者が、それを見た時、しばらく声が出なかった。
「……約束が、違う」
工事の者は、答えなかった。
ただ、土を運び続けた。
◇
慶長十九年(1614年)、十二月。
和睦の条件は、外堀の埋め立てだった。
はずだった。
◇
「EDO、工事の状況は」
『外堀の埋め立て、完了しました。続いて内堀の工事が、始まっています』
「そうか」
『……家康様、これは』
「わかっている」
『和睦の条件に、内堀は含まれていませんでした』
「含まれていなかった」
『では、なぜ』
「解釈の問題だ」
◇
EDOは、少し黙った。
『解釈の問題、ですか』
「豊臣は「外堀」と理解した。ワシの側は「堀全体」と理解した」
『それは、意図的な曖昧さでしたか』
家康は、答えなかった。
窓の外で、工事の音が続いていた。
土を運ぶ音。
堀が埋まっていく音。
『……わかりました』
「責めるか」
『できるだけ、犠牲が少ない方法を考えます、と言いました』
「そうだな」
『ただ──』
「ただ?」
『これは、そうなっていますか』
◇
家康は、しばらく黙った。
「内堀が埋まれば、大坂城の防衛力は、ほぼゼロになる」
『はい』
「夏に攻める時、味方の損害が、格段に減る」
『はい』
「真田丸で死んだ千二百の命を、これ以上増やさないために」
『……はい』
「それが、ワシの答えだ」
EDOは、それ以上聞かなかった。
◇
大坂城の中で、淀殿が怒った。
「約束が違う!」
使者を呼んだ。
抗議の書状を書いた。
しかし、工事は止まらなかった。
◇
真田信繁は、堀が埋まっていくのを、城壁の上から見ていた。
供の者が言った。
「……どうなりますか」
信繁は、答えなかった。
しばらくして、静かに言った。
「春が来る」
「春に、また戦ですか」
「そうだ」
「勝てますか」
信繁は、埋まっていく堀を見た。
外堀が消えた。
内堀が消えた。
大坂城は、裸になっていく。
「……勝てない」
「では」
「それでも、やる」
◇
按針が来た。
「内府殿、工事を見ていました」
「そうか」
「……内堀まで、埋めるつもりでしたか」
家康は、按針を見た。
「お前には、正直に言う」
「はい」
「最初から、そうするつもりだった」
按針は、少し間を置いた。
「……和睦は、初めから」
「豊臣が飲める条件を出した。豊臣が飲んだ。工事が始まった。あとは、なるようになった」
「意図的に、曖昧な条件を」
「……そうとも言える」
◇
按針は、しばらく黙った。
「内府殿」
「なんだ」
「私の国にも、似たことがあります」
「どんなことだ」
「条約を結んで、解釈の違いで、破る。よくあることです」
「……お前の国でも、か」
「どの国でも、あります。それが、人間のすることです」
家康は、少し目を細めた。
「責めていないのか」
「責めています。ただ──」
按針は、海の方を見た。
「責めても、変わらない。だから、次を考えます」
◇
「EDO、豊臣の残された選択肢は」
『二つです』
「言え」
『一つ。徳川に降伏し、秀頼殿が国替えに応じる』
「もう一つは」
『春に、戦う』
「淀殿は、どちらを選ぶ」
『……降伏は、しないと思います』
「そうだな」
『理由を言いますか』
「言わなくていい。わかっている」
◇
EDOが、少し間を置いた。
『家康様』
「なんだ」
『秀頼殿は、どうしたいと思いますか』
家康は、しばらく黙った。
「……わからない」
『珍しいですね。家康様が、わからないとおっしゃるのは』
「人の心は、計算できない。それは、お前も同じだろう」
『はい。秀頼殿の内心だけは、データが少なすぎます』
「あの子は、どんな顔をしているか」
『……報告によれば、最近、笑っていないそうです』
◇
家康は、目を閉じた。
(二十二歳か)
ワシが二十二の時は、今川の人質だった。
それでも、外の世界を見ていた。
秀頼は、大坂城の中しか知らない。
その城の堀が、今、埋まっていく。
「……秀吉よ」
静かに、呼んだ。
「お前が作った城が、こうなった。許してくれとは言わん。だが」
『……』
「覚えていてくれ」
◇
春が来る前に、雪が降った。
大坂城は、白く覆われた。
堀の跡も、雪の下に消えた。
「EDO、夏の陣になれば、どうなる」
『……豊臣の勝ち目は、ほぼありません』
「ほぼ、か」
『真田信繁が、変数です。あの方だけは、計算が収束しません』
「あの男は、何をするつもりだ」
『わかりません』
「ワシにも、わからない」
家康は、雪の大坂城を見た。
白く、静かに、沈んでいくように見えた。
「……春になれば、わかる」
◇
その夜、信繁は一人で地図を描いていた。
城の周りの地形を。
堀のない、裸の大坂城の周りを。
どこから攻められるか。
どこに出れば、一矢報いられるか。
供の者が言った。
「眠らないのですか」
「眠れない」
「何を考えているのですか」
信繁は、筆を止めた。
「……歴史に、名を残す方法だ」
◇
《── 慶長十九年十二月〜慶長二十年春 ──》
《大坂城:外堀・内堀、埋め立て完了》
《豊臣家の選択:抗議するも、工事止まらず》
《真田信繁:夏の陣の準備を開始》
《家康:春を待つ》
《決戦まで:約五ヶ月》
◇
堀が、埋まった。
外堀も、内堀も。
大坂城は、裸になった。
豊臣は抗議し、
家康は動じなかった。
春になれば、決着がつく。
誰もが、知っていた。
真田信繁だけが、
眠れない夜に、
歴史への残り方を、考えていた。




