第二十二話:「紅蓮の落日」
──慶長二十年(1615年)五月七日、大坂夏の陣──
目の前に、赤がいた。
「──ッ!」
馬が、嘶いた。
家康の乗る馬が、真横に跳んだ。
刃が、空を斬った。
ほんの紙一重。
あと半歩前にいれば、家康の首は、今頃地に落ちていた。
「本陣を退け! 退けぇ!」
誰かが叫んだ。
家康には、聞こえなかった。
ただ、目の前の男だけが、見えていた。
真田信繁。
血と泥にまみれた赤備え。
それでも、その眼だけは、澄んでいた。
「……徳川殿」
静かな声だった。
戦場の轟音の中で、なぜかはっきりと聞こえた。
「ここまで来ましたぞ」
笑っていた。
満足そうに、笑っていた。
『第三回目の本陣移動を推奨します』
EDOの声が、耳に届いた。
『このまま交戦継続は──』
「……分かった」
家康は、馬首を返した。
(逃げる)
(天下人が、一人の将から、逃げる)
屈辱だった。
しかし──
(生きねばならぬ)
それが、全てだった。
本陣が、三度目の移動をした。
史上、かつてない光景だった。
七十四万の大軍を率いる天下人が、たった三千五百の赤備えに、本陣を二度も追われた。
後世の人々は、これを語り継ぐだろう。
徳川家康が、逃げた日として。
そして──
真田信繁が、天下人を追い詰めた日として。
《戦況ログ:慶長二十年五月七日》
《真田隊による本陣突入:二回》
《家康公の本陣移動:三回》
《徳川方死傷者数:推定四千二百》
《形勢逆転の可能性:算出不能》
『家康公』
EDOが呼んだ。
「何だ」
『真田隊の動きが……止まりました』
止まった。
前線からの報告が、届いた。
「真田隊、急に動きが鈍くなっています!」
「兵が、減っています! 三千が、もう五百を切っているかと!」
「真田信繁が──」
報告が、途切れた。
家康は、問い返した。
「真田信繁が、どうした」
沈黙。
長い、沈黙。
「……討ち取られました」
その言葉は、静かに、戦場に落ちた。
家康は、何も言わなかった。
EDOも、何も言わなかった。
遠くで、炎が上がっていた。
大坂城が、燃えていた。
真田信繁、享年四十九歳。
最期は、安居神社の境内で休んでいるところを討たれたという。
追い詰めた敵の将に、真田は言った。
「手柄にせよ」と。
その死を聞いた諸将は、口々に言った。
「日本一の兵」
天下人を三度追い詰めた男への、最大の賛辞だった。
炎は、夜になっても消えなかった。
大坂城の天守が、紅蓮に包まれていた。
その城の中で、豊臣秀頼と淀殿が、最後の時を迎えようとしていた。
「……EDO」
家康が呼んだ。
遠くから、城を眺めながら。
『はい』
「あの城の中に、まだ人がいるか」
EDOは、答えるまでに、少し間を置いた。
『秀頼公と、淀殿が、御座います』
(秀頼)
家康は、その名を心の中で転がした。
秀吉の息子。
豊臣の血。
かつて家康が、「守る」と誓った男の、息子。
(秀吉よ)
(ワシは、お前との約束を──)
火の粉が、夜空に舞い上がった。
星のように、美しく、儚く。
「……EDO」
『はい』
「あの城の中の者たちを、助けることは」
言いかけて、止まった。
止めたのは、家康自身だった。
答えは、分かっていた。
分かっていても、聞きたかった。
EDOは、静かに答えた。
『……歴史は、既に動いております』
炎が、高く上がった。
大坂城の天守が、崩れ落ちた。
轟音が、夜空に響いた。
それは──
百年続いた、戦乱の時代の、最後の音だった。
「……終わったか」
家康は、呟いた。
EDOは、何も言わなかった。
ただ、静かに、そこにいた。
夜明けが、来た。
大坂の空が、灰色に染まる中。
EDOのレンズの中に、一つの数値が表示されていた。
家康には、見えなかった。
それは、こう記されていた。
《豊臣家滅亡。天下統一完了》
《次のフェーズ:移行》
そして、もう一行。
《想定外の変数、検知》
「EDO。次は、何をすればいい」
家康が聞いた。
AIは、少しだけ間を置いた。
まるで、言葉を選ぶように。
『……江戸を、作りましょう』
『本当の意味で、この国が続いていくための──江戸を』
家康は、初めて、笑った。
この朝、初めて。
「そうだな」
灰色の空が、少しずつ、白んでいく。
「ワシたちの仕事は、まだ終わらんな」




