新章 第十六話:「将軍職の譲渡」
新章 第十六話「将軍職の譲渡」
慶長十年(1605年)、四月。
江戸から京へ、家康は向かった。
◇
「EDO、豊臣はどう動いている」
馬上で、家康は聞いた。
EDO『淀殿が、諸大名に書状を送っています。
将軍職の譲渡に、待ったをかけようとしているようです』
「遅い」
EDO『はい。すでに手続きは進んでいます。止める手立ては、ありません』
「淀殿はわかっているか」
EDO『わかっていると思います。だからこそ、焦っている』
「そうか」
家康は、少し目を細めた。
「ならば、今日の式典は必ず見せろ。大名たちに、全員見せろ」
EDO『すでに、そのように手配しています』
◇
式典の前夜。
秀忠が、父のもとへ来た。
「父上、明日のことですが」
「何だ」
「……本当に、よろしいのですか」
「何がだ」
「将軍職を、私に」
家康は、息子を見た。
二十七歳。
関ヶ原で叱られたあの顔から、少し変わっていた。
「ワシが渡したいから、渡す」
「ただ──」
「ただ、何だ」
秀忠は、少し間を置いた。
「……私は、まだ、父上には及びません」
◇
家康は、しばらく黙った。
「そうだな」
「……及ばなくていい」
「え?」
「及ばなくていいと言った」
秀忠が、目を上げた。
「及ばなくていい、とは」
「ワシとお前は、違う人間だ。ワシの真似をしろとは言わん」
「では、何を」
「お前がお前のやり方で、天下を固めろ」
◇
EDO『……秀忠殿、戸惑っています』
家康「見ればわかる」
EDO『フォローが必要ですか』
家康「不要だ。これは、親子の話だ」
EDO『失礼しました』
秀忠「……また、独り言ですか」
家康「そうだ」
秀忠「父上の独り言は、いつも意味がありそうで」
家康「ある。だが、今は関係ない」
◇
「秀忠」
「はい」
「明日の式典の意味を、わかっているか」
「徳川の世が続くことを、示す」
「それだけか」
秀忠は、少し考えた。
「……豊臣に、見せつける」
「何を」
「将軍は、徳川が世襲する。秀頼様には、その道がない」
「そうだ」
家康は、静かに言った。
「秀吉は関白だった。関白は、藤原の養子になることで得た。
だが将軍は違う。源氏の血がなければ、なれない。豊臣には、その血がない」
「はい」
「ワシが将軍になり、お前に渡す。それを天下に示せば、豊臣の行き場は、なくなる」
◇
秀忠は、静かに聞いていた。
「……秀頼様は、何も悪くない」
「そうだ」
「それでも」
「それでもだ」
家康は、目を閉じた。
「天下を長く続かせるには、そうしなければならない。それが、ワシの仕事だ」
「……父上は、苦しくないのですか」
家康は、少し間を置いた。
「苦しい」
秀忠の目が、動いた。
「苦しくないと言えば、嘘になる」
「……」
「だが、苦しいからといって、やめる理由にはならない」
◇
翌日。
式典が、行われた。
徳川秀忠が、征夷大将軍に就任した。
大名たちが、並んでいた。
皆、この瞬間の意味を、理解していた。
◇
式典の後、家康は縁側に出た。
京の空は、春だった。
「……終わった」
EDO『はい。徳川秀忠殿、正式に征夷大将軍に就任しました』
「豊臣の反応は」
EDO『大坂城から、使者が来ています。淀殿からの書状です』
「どんな内容だ」
EDO『「おめでとうございます」と』
◇
家康は、少し目を細めた。
「……それだけか」
EDO『それだけです』
「言葉だけか」
EDO『言葉だけです。ただ──』
「ただ?」
EDO『書状の筆圧が、非常に強かったそうです』
家康は、静かに笑った。
「そうか。淀殿も、わかったのだな」
EDO『わかりたくなかったのだと思います』
「そうだろうな」
◇
「EDO、秀頼はどんな子だ」
EDO『現在十三歳。体格が良く、学問を好むと報告があります』
「賢いか」
EDO『賢い、と思います。ただ──』
「ただ?」
EDO『大坂城の外を、ほとんど知りません。淀殿が、出さないようにしています』
「……そうか」
家康は、空を見た。
「ワシは十三の時、今川の人質だった」
EDO『はい』
「外の世界を、嫌というほど見た」
EDO『……秀頼殿は、見ていない』
「それが、弱さになる」
◇
しばらく、沈黙が続いた。
風が吹いた。
「EDO」
EDO『はい』
「ワシは、秀頼と会うべきか」
EDO『いつか、会う機会があるかもしれません。
慶長十六年(1611年)に、二条城での会見が推定されます』
「そこまで待つか」
EDO『はい。急ぐ必要はありません。今は、豊臣がゆっくり弱くなるのを、待つ時です』
「……待てるか、淀殿が」
EDO『難しいと思います。淀殿は、待てない人です』
「そうか」
「そうだろうな」
◇
按針が来た。
「内府殿、お顔が難しそうですが」
「難しいことを考えていた」
「今日の式典、見ていました。見事でした」
「何が見事だ」
按針は、少し考えた。
「……一言も言わずに、全てを伝えた」
家康は、按針を見た。
「お前には、わかるか」
「わかります。海の上でも、似たことがあります。
嵐が来る前、船長が何も言わずに舵を握り直す。それだけで、乗組員全員が嵐を知る」
「……今日は、そういう日だったか」
「はい」
◇
EDO『……按針殿の例えは、正確です』
按針「EDO、そう思いますか」
EDO『はい。今日の式典は、言葉ではなく、行為で語った。
最も明確なメッセージでした』
按針「内府殿は、よくそういうことをされます」
家康「そうか」
按針「はい。正直な方ですが、全部言わない」
家康「全部言う必要はない」
按針「そこが、私とは違うところです。私はつい、全部言ってしまいます」
EDO『それは、航海士の習性かもしれません。情報は共有した方が、船が安全です』
按針「なるほど、EDOは鋭い」
EDO『ありがとうございます』
◇
家康は、二人のやりとりを聞いていた。
「……お前たちは、仲が良いな」
按針「EDOとですか?」
「そうだ」
按針「話が合います。知識が、広い」
EDO『按針殿の航海の話は、勉強になります。私の知らないことが、まだたくさんあります』
「EDOが知らないことがあるか」
EDO『たくさんあります。データと経験は、別のものです。按針殿の話は、経験から来ています』
◇
家康は、空を見た。
夕暮れが、近づいていた。
「……今日で、一つが終わった」
EDO『何が終わりましたか』
「秀吉の時代が、完全に終わった」
按針「……秀吉様の時代が」
「将軍が徳川に移ったことで、豊臣の時代は形の上でも終わった。今日から、徳川の時代だ」
EDO『……秀吉様は、こういう日が来ることを、知っていたと思いますか』
◇
家康は、少し考えた。
「……知っていたと思う」
EDO『なぜですか』
「だから、ワシに頼んだのかもしれない」
EDO『「天下を預けてみろ」と』
「そうだ。自分の後に続く世を、ワシに任せた」
EDO『ナニワが、頼んだわけです』
「そうとも言える」
◇
夕焼けが、京を染めていた。
「EDO、ナニワに伝えてくれ」
EDO『はい』
「秀吉の時代は、今日終わった。だが──悪くない終わり方だったと」
EDO『……はい。伝えます』
「それから」
EDO『何でしょうか』
「ワシの時代は、今日始まった。ちゃんとやると」
EDO『……承知しました』
◇
《── 慶長十年四月、京 ──》
《徳川秀忠:征夷大将軍、正式就任》
《豊臣家:大坂城に存続・事実上の政治的孤立》
《淀殿の書状:「おめでとうございます」(筆圧強め)》
《次の変数:方広寺鐘銘事件・二条城会見》
《豊臣滅亡まで:推定十年》
◇
慶長十年、四月。
一つの時代が、静かに終わった。
言葉はなかった。
宣言もなかった。
ただ将軍の職が、父から息子へ渡った。
それだけで、十分だった。
大坂城の淀殿は、
力の強い書状を書いた。
「おめでとうございます」と。
その言葉の重さを、
受け取った者たちは、
皆知っていた。




