新章 第十四話:「三浦按針」
慶長十年(1605年)、春。
桜が、江戸に咲いていた。
◇
伊豆・伊東で建造された船が、完成した。
八十トン。
西洋式の帆船が、日本の海に浮かんだ。
按針は、完成した船を見て、しばらく動かなかった。
目が、赤かった。
「……按針、泣いているか」
「泣いていません」
「目が赤い」
「潮風のせいです」
家康は、何も言わなかった。
◇
船は、静かに波に揺れていた。
白い帆が、春の風を受けていた。
「……良い船だ」
按針が、静かに言った。
「五年かかりました」
「来日から、か」
「はい。来た時は、生きて船を作れるとは思っていませんでした」
「そうか」
「内府殿が助けてくれた。だから、作れた」
◇
EDO『アダムス殿の声が、少し震えています』
家康「わかっている。静かにしていてくれ」
按針「また独り言ですか」
家康「EDOが、お前のことを言っていた」
按針「何と?」
家康「声が震えていると」
按針は、少し笑った。
「EDOは、よく見ていますね」
EDO『よく聞いています。見えませんので』
按針「……そうでしたね。すみません」
EDO『謝らないでください。聞こえていれば、十分です』
◇
その日の夜、家康は按針を呼んだ。
「按針、お前に名前を与えたい」
按針は、目を上げた。
「名前?」
「日本の名だ」
「……日本の名を、いただけるのですか」
「お前はこの国に根を張った。ならば、この国の名が要る」
◇
按針は、しばらく黙っていた。
「……どんな名ですか」
「三浦按針」
「三浦、は」
「お前に領地を与える。相模の三浦だ。そこの名を、姓にしてもらう」
「按針、は」
「コンパス。羅針盤。お前が海を渡る時に使ったものだ」
◇
按針は、もう一度黙った。
今度は、長い沈黙だった。
「……ウィリアム・アダムスは、イングランドの名です」
「そうだ」
「三浦按針は、日本の名です」
「そうだ」
「二つ、持てますか」
家康は、少し考えた。
「持てる。どちらも、お前だ」
◇
EDO『……家康様』
家康「なんだ」
EDO『良い名前ですね』
家康「そうか」
EDO『按針。羅針盤。道を示すもの、という意味でもあります』
家康「お前が考えたか」
EDO『いいえ。ただ、良い名だと思いました』
按針「EDO、ありがとうございます」
EDO『どういたしまして、三浦按針殿』
◇
按針が、笑った。
「……三浦按針。慣れるまで時間がかかりそうです」
「急がなくていい」
「ウィリアムと呼んでくれる人も、必要ですか」
「そうだな。ワシはどちらで呼んでもいいか」
「どちらでも」
「では、按針と呼ぶ。その方が、短い」
「……内府殿は、合理的ですね」
「そうか」
「はい。とても」
◇
翌日。
伏見城で、式典が行われた。
征夷大将軍の職が、秀忠に譲られる日だった。
◇
家康は、正装していた。
「……どう見える」
EDO『普段と変わりません』
「正装なのに、か」
EDO『家康様は、普段から背筋が伸びています。正装しても、変わりません』
「それは……褒めているのか」
EDO『褒めています』
「そうか」
◇
式典が終わった。
秀忠が、征夷大将軍となった。
家康は、式典の後、一人で縁側に出た。
「……これで、良い」
EDO『征夷大将軍の譲渡は、何を意図していますか』
「わかっているだろう」
EDO『豊臣家に向けた、宣言です』
「そうだ」
EDO『「将軍は徳川が世襲する」という』
「秀吉は関白になった。だが関白は、秀次が死んで途絶えた。将軍は、源氏の血を引く者しかなれない。ワシには、その血がある」
◇
EDO『豊臣秀頼殿は、十三歳になりました』
「そうだ」
EDO『いずれ、豊臣との決着が必要です』
「わかっている」
EDO『秀頼殿は、何も悪いことをしていません』
「そうだ」
EDO『……それでも』
「それでもだ」
家康は、空を見た。
「これが、天下を長く続かせるということだ。誰かが、決断しなければならない」
◇
EDO は、少し間を置いた。
EDO『……ナニワのデータに、秀吉様の言葉があります』
「なんと言っていた」
EDO『「秀頼のことを、よろしく頼む」と。大老たちへの遺言です』
家康は、目を閉じた。
「……覚えている」
「署名した。ワシも、署名した」
EDO『……はい』
「あの時の誓いを、破ることになる」
「それが、わかっていても」
「そうだ。それでも、だ」
◇
しばらく、沈黙が続いた。
風が吹いた。
春の、柔らかい風が。
「EDO」
EDO『はい』
「お前は、ワシを責めるか」
EDO『責める権限は、私にはありません』
「権限の話ではない」
EDO『……』
少し、長い沈黙があった。
EDO『できるだけ、犠牲が少ない方法を、一緒に考えます』
「それは──第二話でも、言ったな」
EDO『はい。変わりません』
「そうか」
家康は、目を開けた。
「変わらないでいてくれ」
EDO『はい』
◇
その夜、按針が来た。
「内府殿、お顔が暗い」
「そうか」
「何かありましたか」
「難しいことを考えていた」
按針は、少し黙った。
それから言った。
「……船に乗る時、嵐が来ることがあります」
「そうだな」
「その時、一番悪いのは、舵を手放すことです」
「……」
「どんな嵐でも、舵を持ち続けた者が、生き残る」
◇
家康は、按針を見た。
「……海の言葉か」
「はい」
「お前は、そうやって生き残ってきたか」
「はい。仲間の多くを、失いましたが」
按針は、海の方を見た。
「……それでも、舵を手放さなかった」
◇
EDO『……アダムス殿の言葉は、今の家康様に必要な言葉でした』
「そうだな」
按針「また、EDOと話していますか」
家康「そうだ。良いことを言った、と」
按針「何を言いましたか」
家康「今の言葉が、必要だったと」
按針は、少し照れたように、肩をすくめた。
「……海が、教えてくれた言葉です」
◇
《── 慶長十年春、江戸 ──》
《三浦按針:日本名授与・相模三浦に領地》
《徳川秀忠:征夷大将軍就任》
《西洋式帆船:完成》
《按針の故郷:イングランド、連絡困難》
《次の変数:方広寺鐘銘事件・豊臣との緊張》
◇
慶長十年、春。
一つの船が完成し、
一つの名前が与えられ、
一つの将軍職が、次へ渡った。
三浦按針は、日本の名を得た。
ウィリアム・アダムスは、
故郷への道をさらに遠くした。
それでも男は、
海を見て笑っていた。
舵を持ち続ける者に、
嵐は負けないから。




