新章 第九話:「遅れてきた息子」
慶長五年(1600年)、十月。
関ヶ原の戦から、三週間。
徳川秀忠が、父のもとへ来た。
◇
秀忠は、頭を下げた。
深く、深く、下げた。
「……申し訳ございませんでした」
家康は、しばらく黙っていた。
「顔を上げろ」
「……」
「上げろと言っている」
秀忠が、顔を上げた。
二十二歳。
どこか幼さが残る顔に、疲労と屈辱が滲んでいた。
「上田で、足止めを食ったか」
「はい」
「真田昌幸に」
「……はい」
◇
家康は、立ち上がった。
部屋を、一度歩いた。
それから、止まった。
「一つだけ聞く」
「はい」
「お前は、何を間違えた」
秀忠は、口を開こうとした。
家康が、続けた。
「「時間をかけすぎた」は、答えではない。「昌幸が強すぎた」も、答えではない」
「……」
「何を、間違えた」
◇
秀忠は、しばらく黙った。
それから、絞り出すように言った。
「……昌幸を、なめていました」
「そうだ」
「老いた狸と、思っていました」
「そうだ」
「六十を過ぎた城主が、二万の軍を相手にできるはずがないと」
「そこだ」
家康は、静かに言った。
「真田昌幸は、信濃一の謀将だ。ワシでさえ、正面からは当たらん」
◇
EDO『秀忠殿、表情が硬直しています』
家康の耳に、静かな声。
「わかっている。少し待て」
秀忠が、首を傾けた。
「……父上、独り言ですか」
「癖だ、気にするな」
「……はい」
EDO『秀忠殿は、深く反省しています。
ただ、その反省が「なぜ負けたか」ではなく「なぜ怒られているか」
に向いている可能性があります』
「……そこが、問題だな」
秀忠「……?」
家康「なんでもない。続けるぞ」
◇
家康は、息子の前に座った。
「秀忠」
「はい」
「昌幸が何をしたか、わかるか」
「上田城に籠り、足止めを」
「それだけか」
「……」
「昌幸は、勝とうとしていたのではない」
家康は、静かに言った。
「時間を、稼いだのだ」
◇
秀忠の目が、少し動いた。
「時間を」
「そうだ。お前を関ヶ原に間に合わせないことが、目的だった。
城を落とすことではない」
「……それは」
「二万の軍が来た。正面から戦えば、いずれ落ちる。
だが、戦い続ければ、時間が稼げる」
「……」
「昌幸は最初から、西軍が負けることを想定していたかもしれん」
◇
秀忠が、息を飲んだ。
「想定、していた?」
「あるいは、どちらが勝っても生き残れる算段を、していた」
EDO『補足します』
家康の耳に。
「言え」
EDO『真田昌幸殿の息子は二人います。長男・信之殿は東軍に与しています。
次男・信繁殿は西軍に』
「……どちらが勝っても、真田家が残るように」
EDO『はい。昌幸殿が西軍につき、信之殿が東軍につく。これは偶然ではないと思われます』
◇
家康は、少し目を細めた。
「……老狸め」
思わず、口に出た。
秀忠が、怪訝な顔をした。
「父上?」
「昌幸のことだ。見事な手を打った」
「……褒めておられるのですか、あの男を」
「褒めている。お前を足止めにした男を、正当に評価している」
「……」
「敵を正しく評価できなければ、天下は治められん」
◇
秀忠は、黙った。
しばらく、黙っていた。
それから、聞いた。
「……昌幸は、どうなりますか」
「信之が嘆願に来ている。死罪を免じてくれ、と」
「父上は、どうされますか」
「流す」
「流罪に?」
「高野山だ」
◇
秀忠の目が、少し変わった。
「……死罪ではなく?」
「昌幸を殺しても、ワシには何の得もない。
生かして流せば、信之への恩になる。信之は東軍の将だ」
「なるほど」
「それに」
家康は、少し間を置いた。
「あの男の息子のことが、気になる」
「信之殿のことですか」
「信繁の方だ」
◇
EDO『……家康様』
「わかっている」
EDO『信繁殿は、現在、西軍として関ヶ原に参加していました。
父・昌幸と共に、流罪になる予定です』
「そうだ」
EDO『何が気になりますか』
「あの男は、まだ若い。二十代だ」
EDO『慶長五年現在、推定二十四歳です』
「高野山に流して、そのまま終わるとは思えん」
◇
秀忠が、静かに聞いていた。
「……信繁殿が、何かすると」
「するかもしれん。しないかもしれん」
家康は、立ち上がった。
「ただ──」
「真田の血は、諦めが悪い」
EDO『同意します。昌幸殿の戦歴を見る限り、「詰んだ」と思われた局面から、
何度も立て直しています』
「そういう家の次男が、九度山に十年以上いれば──何を考えるか」
◇
秀忠の顔が、少し青くなった。
「……父上。それは、豊臣と繋がるということですか」
「そうなるかもしれん」
「ならば、今のうちに」
「処分はせん」
家康は、きっぱりと言った。
「理由は」
「信之への義理だ。それに──」
少し、間を置いた。
「眠っている虎を起こすことはない」
◇
EDO『……家康様は、信繁殿を警戒していますか』
その夜、二人きりになってから、EDOが聞いた。
「警戒している」
EDO『どの程度』
「最も、かもしれん」
EDO『三成殿より?』
「三成は、政治で動いた。信繁は、剣で動く男だ。剣で動く男は、読みにくい」
◇
EDO『……一つ、計算してもよいですか』
「言え」
EDO『信繁殿が流罪から何らかの形で復帰し、豊臣方として動くとすれば──
時期は、いつ頃になると思いますか』
家康は、少し考えた。
「豊臣がまだ生きていて、ワシへの不満が高まった時だ」
EDO『豊臣家が滅ぶまで、信繁殿は動けません』
「そうだ」
EDO『豊臣家が滅びそうになった時に、信繁殿が動く』
「……その時が、一番危ない」
◇
EDO『家康様』
「なんだ」
EDO『その時、家康様はまだ生きていますか』
家康は、少し笑った。
「わからん」
EDO『推定でよいですか』
「いくつだ」
EDO『慶長十九年頃とすると、家康様は七十二、三歳です』
「……微妙だな」
EDO『生きている可能性は、あります』
「そうか。ならば、その時に備えておく」
EDO『何を備えますか』
「秀忠を、鍛えておくことだ」
◇
家康は、窓の外を見た。
夜の空に、星が出ていた。
「今日、秀忠を叱った。だが──」
「あの子は、真面目だ。ワシより、真面目だ」
EDO『真面目であることは、良いことではないのですか』
「良いことだ。だが、戦は真面目なだけでは勝てない」
EDO『では、何が必要ですか』
「昌幸のような相手に、動じないことだ」
◇
EDO は、少し間を置いた。
EDO『……信繁殿のような相手にも』
「そうだ」
EDO『家康様が鍛えれば、秀忠殿は変わりますか』
「変わらなければ、ならん。それが、将軍の息子というものだ」
EDO『……将軍』
「まだ、将軍ではない。だが、そうなる」
◇
《── 慶長五年十月、伏見 ──》
《真田昌幸・信繁:高野山へ流罪》
《真田信之:東軍の功績により、上田藩主として存続》
《秀忠:父に叱責を受ける》
《注視対象:真田信繁(九度山)》
《フラグ:大坂の陣まで、推定十四年》
◇
真田昌幸は、高野山へ消えた。
息子を東西に分けた老将は、
最後まで笑っていたという。
次男・信繁は、父に従い、
九度山の山奥へ消えた。
二十四歳。
その男が再び歴史に現れる日を、
まだ誰も知らなかった。
家康だけが、
胸の奥で、静かに、
覚えていた。




