新章 第六話:「天下分け目(前編)」
新章 第六話「天下分け目(前編)」
慶長五年(1600年)九月十四日。
雨が、降っていた。
◇
関ヶ原。
美濃国の盆地。
四方を山に囲まれた、狭い土地だ。
その土地に今、東西合わせて十数万の兵が、ひしめいていた。
霧が出ていた。
秋の夜の霧が、山裾から這い上がり、篝火を飲み込もうとしていた。
◇
家康は、本陣にいた。
地図を広げ、EDOの報告を聞いていた。
EDO『西軍の布陣、確認しました』
「言え」
EDO『石田三成殿、笹尾山。宇喜多秀家殿、中央。大谷吉継殿、藤川台。
島津義弘殿、中央やや右。小西行長殿、天満山』
「……見事な布陣だな」
EDO『四方の山を押さえています。兵数も、石高も、西軍が上回っています』
「数字だけ見れば、東軍は不利か」
EDO『はい』
家康は、地図を見た。
「だが、勝つ」
EDO『なぜそう言い切れますか』
「松尾山を見ろ」
◇
地図の上の、一点。
松尾山。
関ヶ原の南西、高い山。
そこに陣を構えているのは──
「小早川秀秋だ」
EDO『……はい』
「あの男は今、どちらにもついていない」
EDO『西軍として参加していますが、山を下りていません』
「西軍の大将・毛利輝元は、大坂城から動かない。
小早川は、高い山から様子を見ている」
家康は、顔を上げた。
「三成は、二人に見捨てられている。まだ気づいていないかもしれんが」
◇
EDO『……小早川殿は、どう動くと思いますか』
「明日、ワシが鉄砲を撃ちかけてやれば、東に寝返る」
EDO『確信がおありですか』
「確信はない。だが、そうしなければあの男の居場所はなくなる」
EDO『家康様から内書をもらっているから、ですか』
「それもある。それだけではない」
家康は地図から目を離した。
「あの男は、怖いんだ」
EDO『何が怖い』
「どちらにつくかを、決め切れないことが、怖い。迷っている人間は、最後は強い方に流れる」
◇
雨が、強くなった。
陣幕が揺れた。
EDO『大谷吉継殿が、小早川殿の動向を警戒しています。
松尾山の監視役として、藤川台に布陣したと思われます』
「大谷か……」
家康の声が、少し変わった。
「あの男は、本物だ」
EDO『本物?』
「三成の最大の誤算は、大谷を味方にしたことかもしれん」
EDO『なぜですか。大谷殿は西軍の重要な将では』
「大谷が強すぎる。三成は大谷の進言を聞かなかった」
EDO『どういう意味ですか』
「大谷は最初、この戦に反対した。時期尚早だと言った。三成が強引に動いた。
……大谷はそれでも、友のために戦場に来た」
◇
家康は、目を閉じた。
「あの男の覚悟は、本物だ。だから怖い。だが──」
「三成には、大谷一人しかいない」
EDO『……』
「友のために死ねる人間は、一人でいい。だが、天下を取るには、それだけでは足りない」
◇
しばらく、雨の音だけが続いた。
EDO『……家康様』
「なんだ」
EDO『一つ、確認してもよいですか』
「言え」
EDO『明日の戦の後、三成殿は──どうなりますか』
家康は、目を開けた。
「捕まえる」
EDO『処刑しますか』
「……そうなるだろう」
EDO『大谷殿は』
「大谷は、戦場で死ぬだろう。あの男は、逃げない」
◇
EDO は、少し黙った。
EDO『……三成殿を、どう思っていますか』
「なぜ聞く」
EDO『家康様は、三成殿のことを「才がある」とおっしゃっていました。
「最も警戒した男」とも』
「……そうだ」
EDO『それでも』
「それでも、だ」
家康は、静かに言った。
「才がある人間が、正しいとは限らない。三成のやり方では、天下は長く続かない」
EDO『なぜですか』
「あの男は、理で動く。筋が通っていれば、正しいと思う。だが、人は理だけでは動かん」
◇
EDO『……ナニワも、似たようなことを言っていました』
「ナニワが?」
EDO『秀吉様に「お前は理屈が多すぎる」と言われたと、引継ぎデータに記録があります』
家康は、思わず笑った。
「秀吉に言われたか。それは、耳が痛かっただろうな」
EDO『「そうかもしれません」と答えたそうです』
「正直だな」
EDO『引継ぎデータには「正直であれ」と書いてありましたので』
◇
雨が、また強くなった。
夜の関ヶ原に、霧が満ちていた。
「EDO」
EDO『はい』
「明日の勝率は」
EDO『現時点での推定は、東軍六割』
「低いな」
EDO『小早川殿の動向が確定するまで、これ以上は上げられません』
「ワシが鉄砲を撃ちかければ、どうなる」
EDO『推定、東軍八割五分』
「……ずいぶん変わるな」
EDO『小早川殿が動けば、西軍の左翼が崩れます。崩れが崩れを呼ぶ。それが戦の理です』
◇
家康は、地図を巻いた。
「今夜は、寝る」
EDO『……寝られますか、明日の前夜に』
「寝られる」
EDO『なぜですか』
「やるべきことは、やった。あとは明日だ」
EDO『……』
「お前は眠れるか」
EDO『私は、眠りません』
「では、見張っていてくれ」
EDO『承知しました』
◇
「一つ、頼む」
EDO『何でしょうか』
「大谷吉継の動きを、細かく記録しておいてくれ」
EDO『……記録して、どうされますか』
「後世に、残したい」
EDO『……はい。承知しました』
◇
家康は横になった。
雨の音が、続いていた。
霧の中の関ヶ原に、十数万の人間が、明日を待っていた。
◇
《── 慶長五年九月十四日、関ヶ原前夜 ──》
《東西両軍:布陣完了》
《東軍推定兵力:約七万五千》
《西軍推定兵力:約八万二千》
《最大変数:小早川秀秋の選択》
《夜明けまで:約五時間》
◇
霧の夜だった。
十数万の人間が、
同じ夜を、別々に過ごした。
三成は策を練り、
大谷は友のために覚悟を固め、
小早川は迷い続け、
島津は黙っていた。
そして家康は、眠った。
眠れる男が、天下を取った。




