新章 第四話:「あの眼鏡だ」
慶長四年(1599年)、夏。
前田利家が逝って、三月が過ぎた。
大坂城の空気が、変わっていた。
重しが取れた、という空気だった。
誰もが、次を読もうとしていた。
◇
大広間に、諸大名が並んでいた。
上座に家康。
五大老の一角として、豊臣政権の名目上の柱として。
その周りに、大名たちが顔を揃えていた。
◇
末席に近いあたりに、独眼の男がいた。
伊達政宗。齢三十二。
右目を幼い頃に失い、左の一つ目で世界を見てきた男だ。
その目が今、上座の家康を、静かに見ていた。
(……利家殿が逝って、こうも変わるか)
広間の空気が、重心を移している。
誰もがそれをわかっていながら、誰も口に出さない。
(天下は、動く)
政宗は確信していた。
問題は、どう動くか、だ。
◇
議事が続いていた。
誰かが何かを主張し、誰かが反論する。
三成派と武断派の空気は、まだ険しかった。
政宗はその間も、上座の家康を観察していた。
(あの男は、何を考えている)
表情がない。
動じない。
小田原の時も、そうだった。
秀吉の前で政宗が白装束で現れた時、秀吉は笑った。
家康は──何も言わなかった。
ただ、静かに見ていた。
あの目が、今も変わらない。
(読めん男だ)
◇
と。
政宗の視線が、止まった。
家康の胸元。
着物の合わせから、何かが、ほんの少し見えた。
黒い。
小さな。
丸い──
(……あれは)
◇
記憶が、走った。
秀吉のそばに、いつもあったもの。
耳にかけるような、不思議な形の器具。
ナニワ、と呼ばれていた。
あの時は、秀吉が持っていた。
それが今──
(家康の懐に)
◇
政宗は、表情を変えなかった。
変えなかったが、心臓が、一度だけ強く打った。
(秀吉は、あれを持って天下を取った)
農民が関白になった。
一夜城を作った。
中国大返しを成し遂げた。
なぜあれほどのことができたのか、政宗はずっと腑に落ちなかった。
才覚だけでは、説明がつかないものが、秀吉にはあった。
そして今──
それが、家康の懐にある。
◇
その時。
EDO『政宗殿が、眼鏡を見ています』
家康の耳だけに届く、静かな声。
家康は書状から目を上げなかった。
「……どのくらい見ている」
EDO『先ほどから、約四十呼吸分です。
表情は平静ですが、瞳孔がわずかに開いています』
「気づいたか」
EDO『はい。どう対応しますか』
◇
家康は、少しだけ考えた。
それから、書状をゆっくりと置いた。
視線を、ゆっくりと室内に向けた。
大広間を、静かに見渡す。
そして──
一瞬、政宗の目と、合った。
◇
家康は、何も言わなかった。
表情も変えなかった。
ただ視線を、次へ動かした。
それだけだった。
(……)
政宗は、息を飲んだ。
(見せた)
意図的に。
あの男は、意図的にワシに見せた。
◇
EDO『政宗殿の表情が、わずかに変化しました』
「どう変わった」
EDO『……覚悟を決めた人間の顔に、似ています』
家康は、かすかに笑った。
誰にも、気づかれない程度に。
「そうか」
EDO『家康様は、わざと見せましたか』
「さて、どうだろうな」
EDO『……やはり、読めません』
◇
広間が終わった。
大名たちが散り始めた。
政宗は、あえて動かなかった。
家康の退場を、遠くから見ていた。
老将が立ち上がり、側近に囲まれて歩いていく。
その背中を見ながら、政宗は決めた。
静かに、しかし確実に。
◇
(敵わない相手とは、戦わない)
政宗家の家訓ではない。
しかし政宗自身が、ずっとそう生きてきた。
秀吉に敵わなかった。だから下った。
白装束を着た。覚悟を見せた。
生き残った。
(あのナニワが、家康の手にある)
秀吉から家康へ。
天下は、そうやって渡っていくのか。
◇
「……あのナニワ」、か」
廊下に出て、政宗は独り言を言った。
秋の光が、廊下を斜めに照らしていた。
「もし大規模な戦になれば──」
一呼吸、置いた。
「家康につく」
◇
その夜。
伏見の宿に戻った家康は、湯を飲みながらEDOに聞いた。
「政宗は、どう見る」
EDO『東軍に与する可能性が、高くなっています』
「理由は」
EDO『あの方は、計算で動く人間です。感情や義理ではなく、生き残るための最善手を選ぶ』
「ワシが、その最善手に見えたか」
EDO『今日の時点では、そのようです』
◇
家康は、湯を置いた。
「政宗は、面白い男だ」
EDO『どのような点が』
「あれほど野心があって、あれほど賢くて
──それでも時勢を読んで、頭を下げられる」
EDO『小田原の白装束、ですか』
「そうだ。あの時、秀吉は笑った。ワシは怖いと思った」
EDO『怖い?』
「生き残ることに、一切の躊躇がない。そういう男は怖い」
◇
EDO は、少し間を置いた。
EDO『家康様も、似たところがあります』
「ワシとは違う」
EDO『どこが』
「政宗は、自分のために生き残る。ワシは天下のために、待っている」
EDO『……』
「自分でも、きれいごとだとわかっている」
EDO『いいえ』
「……」
EDO『ナニワの引継ぎデータに、似たような言葉がありました』
「秀吉が?」
EDO『「自分のためか天下のためか、どちらかわからんくなってきた」と。
晩年に言っていたそうです』
◇
家康は、目を閉じた。
(秀吉も、そう思っていたか)
しばらく、沈黙が続いた。
「……あの男は、最後まで走り続けたな」
EDO『止まれない人でした』
「ワシは、止まれる」
EDO『それが、強みです』
「そうか」
◇
窓の外の空に、星が出ていた。
夏の夜の、濃い星だった。
「EDO」
EDO『はい』
「大戦まで、あと何年だ」
EDO『推定、一年から一年半』
「短いな」
EDO『ですが──家康様には、十分な時間です』
◇
《── 慶長四年夏、大坂 ──》
《伊達政宗、眼鏡を認識》
《東軍参加確率:推定七十九パーセント》
《前田利家:死去より三ヶ月》
《五大老体制:事実上崩壊》
《次の変数:石田三成の行動時期》
◇
利家が逝り、天下の重心が動いた。
大坂の広間で、独眼竜は見た。
老将の懐に光る、小さな丸いものを。
それだけで、政宗は決めた。
読めない男の懐に、
読めないものがある。
ならば、その隣に立とう、と。




