新章 第三話:「五大老、崩れる」
慶長三年(1598年)、冬。
前田利家が、床に臥せった。
◇
知らせを聞いた時、家康は書状を読んでいた。
EDO『前田利家殿の容態が、悪化しています』
「……いつから」
EDO『先月より。ただ、公表はされていません』
「なぜわかる」
EDO『大坂城への来訪頻度が減少しています。
また、側近への指示が文書経由に切り替わっています。直接の対話を避けている』
家康は、書状から目を上げなかった。
「……寿命か」
EDO『はい。推定、半年から一年』
「そうか」
◇
家康は、静かに書状に戻った。
その横顔を、灯りが照らしていた。
EDO『……何もしないのですか』
「何もする必要がない」
EDO『利家殿が倒れれば、石田三成殿を抑える者がいなくなります。
武断派との対立が──』
「わかっている」
EDO『では』
「待て、と言った」
◇
沈黙。
家康は書状を置き、茶を飲んだ。
「利家は、ワシの動きを牽制してきた。豊臣の忠臣として、な」
EDO『はい』
「だが、利家自身は賢い男だ。ワシと正面からぶつかることは、避けてきた」
EDO『互いに、牽制し合う関係でした』
「そうだ。その均衡が、崩れる」
家康は、また茶を飲んだ。
「崩れたところで、ワシは動く。それだけだ」
◇
EDO『……一つ、よいですか』
「なんだ」
EDO『石田三成殿のことです』
「言え」
EDO『三成殿は、有能な官僚です。
しかし、武断派との関係が修復不可能な段階に入っています』
「加藤清正と福島正則か」
EDO『朝鮮での軋轢が、未だに尾を引いています。
指揮系統の対立、兵站の不満、論功行賞への不満──複数の変数が重なっています』
「三成は、現場の武将に嫌われた」
EDO『才能と人望は、別のものです』
◇
家康は、少し笑った。
「お前にしては、辛辣だな」
EDO『事実の整理です』
「三成の才能は、本物だ。ワシが最も警戒した男だった」
EDO『過去形ですか』
「利家が倒れた後、三成は孤立する。才能があっても、孤立した人間は、焦る」
EDO『焦ると』
「動く。動けば、隙ができる」
◇
《── 慶長四年(1599年)、春 ──》
前田利家の容態が、さらに悪化した。
加藤清正、福島正則ら武断派七将が動いた。
石田三成の屋敷を、襲撃しようとした。
◇
「……動いたか」
知らせを聞いた家康は、静かに言った。
EDO『七将が三成殿の屋敷を包囲しています。
三成殿は現在、利家殿の大坂屋敷に逃げ込んでいます』
「利家が、かくまったか」
EDO『はい。七将の要求は、三成殿の処罰です』
「利家は、断るだろうな」
EDO『豊臣の奉行を、大名に差し出すことはできない。利家殿の立場では、そうなります』
「……だが、利家に時間がない」
◇
その通りになった。
利家はかろうじて仲裁に入り、三成は奉行職を辞して、佐和山城に引いた。
武断派の要求は、半分だけ通った。
誰も、満足しなかった。
「三成は生き延びた」
EDO『はい。ただ、政治的には大きく後退しました』
「利家のおかげで」
EDO『そうです。しかし──』
「利家が死ねば、三成を守る者は、もういない」
◇
慶長四年(1599年)、閏三月三日。
前田利家が、逝った。
享年六十一。
◇
家康は、知らせを聞いた時、しばらく目を閉じていた。
「……逝ったか」
EDO『はい』
「長い付き合いだった」
EDO『……』
「信長様の頃から、知っている男だ」
家康は、目を開けた。
窓の外の空は、春なのに灰色だった。
「……惜しい男を、亡くした」
◇
EDO は、少し間を置いた。
EDO『家康様』
「なんだ」
EDO『……お悔やみを』
家康は、驚いたように目を動かした。
「お前が、そういうことを言うか」
EDO『ナニワの引継ぎデータに書いてありました。こういう時は、言うべきだと』
「……そうか」
「ありがとう」
◇
それから、家康は立ち上がった。
窓の外を見た。
灰色の空。
「利家殿」
静かに、呼んだ。
「あなたが守ろうとしたものは、ワシが預かる」
EDO『……』
「秀頼のことは、きちんとする。約束通り」
EDO『……家康様は、その約束を守るつもりですか』
◇
家康は、少し黙った。
「守れるかどうかは、三成次第だ」
EDO『三成殿が動けば』
「動かざるを得なくなる。そういうことだ」
EDO『……三成殿は、動くと思いますか』
家康は、空を見たまま言った。
「あの男は、動く」
「才があって、正義があって、仲間を失った男は──必ず、動く」
◇
EDO『いつ頃だと思いますか』
「一年から一年半。慶長五年の夏、か」
EDO『推定と、ほぼ一致しています』
「そうか」
家康は、窓から離れた。
「それまでに、やることがある」
EDO『何でしょうか』
「味方を増やすことだ」
◇
家康は、机に戻った。
書状の山が、また積まれていた。
「一人ずつ、丁寧に。脅さず、急かさず」
EDO『時間をかけて』
「そうだ。ワシには時間がある」
EDO『利家殿には、なかった』
「……ああ」
家康は、筆を取った。
「利家殿には、なかった」
◇
《── 慶長四年閏三月、大坂 ──》
《前田利家:死去(享年61)》
《五大老の均衡:崩壊》
《石田三成:奉行職辞任・佐和山引退》
《次の変数:三成の動向、諸大名の動向》
《推定:慶長五年夏に、何かが起きる》
◇
利家が逝った。
秀吉を知る男が、また一人、消えた。
五大老の均衡は崩れ、
豊臣の世は、音もなく傾き始めた。
家康は待った。
焦らず、動かず、ただ待った。
その待つ力が、
誰よりも恐ろしかった。




