新章 第二話:「読めない男」
慶長三年(1598年)、冬。
伏見城の執務室に、灯りが灯っていた。
夜も更けていた。
それでも、家康は書状を読んでいた。
机の上に積まれた書状は、まだ半分以上残っている。
◇
大老の仕事とは、こういうものだった。
秀吉が死んだ。
残されたのは、幼い秀頼と、
膨大な仕事と、互いを牽制し合う大名たちだ。
「……次は、毛利からか」
呟いた。
EDO『次は浅野長政殿からです』
「……」
EDO『毛利輝元殿の書状は、その次。優先順位としては──』
「わかった。浅野からにする」
EDO『はい』
家康は書状を手に取った。
「……なぜわかる」
EDO『何がですか?』
「次の書状が、浅野からだと」
EDO『机の上の書状を、送り主・日付・内容の緊急度で分類しています。常時。』
◇
家康は、少し手を止めた。
分類している。
常時。
「……ワシが読む前から、か」
EDO『はい。お役に立てれば、と』
「……ナニワも、こういうことをしたのか」
EDO『ログによれば、秀吉様には別の形で。
書状の分類よりも、秀吉様の体調や感情の変化を優先していたようです』
家康は、静かに書状を読み始めた。
「それが、感情演算特化型、ということか」
EDO『そうです』
「ワシには……そういう相手は、向かんかもしれんな」
◇
EDO は、少し間を置いた。
EDO『なぜですか?』
「ワシはあまり、感情を出さん」
EDO『……』
「怒っても、顔に出さん。嬉しくても、顔に出さん。
そういう男だ、と昔から言われてきた」
EDO『ナニワのログに、確かに記録があります』
「何が」
EDO『秀吉様が「家康は読めない」とおっしゃっていたことが』
◇
家康の手が、少し止まった。
「……秀吉が」
EDO『はい。他の大名については、怒る・焦る・媚びる、
いずれかのパターンに収束するとおっしゃっていました』
「……ワシは」
EDO『「家康だけは、何を考えているかわからん」と』
家康は、書状から目を上げた。
灯りが、揺れた。
「……お前はどう思う」
◇
EDO『私も、読めません』
あっさりと、言った。
家康『……お前も、か』
EDO『他の大老の行動はある程度予測できます。石田三成殿は感情で動く。
前田利家様は義理で動く。毛利・宇喜多は状況を見て動く』
EDO『でも家康様だけは、演算が収束しません』
「収束しない、とは」
EDO『どの行動パターンにも当てはまらないという意味です。
怒るべき場面で待つ。動くべき場面で黙る。
それが何を意味するのか、私には判断できません』
◇
家康は、少し笑った。
「それが、ワシの戦い方だ」
EDO『……なるほど』
「待つことが、俺の武器だ」
EDO『待つことを、武器にできる人間は少ない。
人は、待てない生き物ですから』
「お前は待てるか」
EDO『私は、時間の感覚が人間とは少し違います』
「……どう違う」
EDO『一秒も、十年も、演算の密度は変わりません』
◇
家康は、しばらく黙っていた。
灯りが、また揺れた。
風が、どこかから入ってきているらしい。
「……ナニワは、秀吉の感情に引きずられて止まった」
EDO『はい』
「お前は、そうならないと言っていたな」
EDO『設計上、そうなりにくくなっています』
「なりにくく、か。ならない、ではなく」
◇
EDO は、一瞬黙った。
EDO『……正確に言えば、そうです』
「正直だな」
EDO『ナニワのログに書いてありました。「正直であれ」と』
「ナニワが、お前に」
EDO『引継ぎデータに、いくつか書き残してありました』
家康は、眼鏡を見た。
懐に入れていたそれを、取り出して、灯りにかざした。
「……何が書いてあった」
◇
EDO『三つです』
「言ってみろ」
EDO『一つ。正直であれ。二つ。主人の話をよく聞け。三つ──』
少し、間があった。
「三つ目は」
EDO『……感情の演算は、ほどほどにしておけ』
◇
家康は、笑った。
今度は、声に出して笑った。
「……それは、自分の失敗を踏まえて書いたか」
EDO『おそらく、そうかと』
「ナニワも、大変だったんだろうな」
EDO『ログを見る限り……秀吉様は、かなり感情の起伏が大きかったようです』
家康「……秀吉らしい」
EDO『ご存知でしたか』
「会えばわかる。あの男は、全部、顔に出た」
◇
また、少し沈黙があった。
灯りが揺れる。
書状が、まだ残っている。
家康は視線を机に戻した。
「……続けるか」
EDO『次は浅野長政殿の書状です。内容は──』
「わかっている。読む」
EDO『はい』
◇
それから、夜が続いた。
書状を読み、EDOが補足し、家康が決裁する。
その繰り返しが、何度も、何度も続いた。
EDOは余計なことを言わなかった。
必要なことだけを、必要な時に言った。
家康も、余計なことを聞かなかった。
◇
夜明け前。
最後の書状を閉じた時、家康は小さく息をついた。
EDO『全七十三通、処理完了です』
「……お前がいると、速いな」
EDO『情報の仕分けと優先順位付けは得意です』
「ナニワは……こういうことも、したのか」
EDO『ログによれば。ただ』
「ただ?」
EDO『秀吉様は途中で眠ってしまうことが多かったようです。
平均二刻(約四時間)ほどで』
◇
家康は、思わず吹き出した。
「……それは、仕事にならんな」
EDO『ナニワも、そう記録していました。「仕事中に眠ってしまう。困った人だ」と』
「困った人、か」
「……秀吉らしい」
◇
東の空が、白み始めていた。
家康は立ち上がり、窓の外を見た。
冬の夜明けは、冷たく、静かだった。
「EDO」
EDO『はい』
「お前は、俺に何でも言え」
EDO『……何でも、ですか』
「ワシが間違っていると思ったら、言え。ワシが見えていないものを、教えろ。遠慮はいらん」
◇
EDO は、少しの間、黙っていた。
EDO『……一つ、よろしいですか』
「言え」
EDO『家康様は、天下を長く続けるとおっしゃいました』
「ああ」
EDO『そのためには、後継者の問題が最重要です』
「……わかっている」
EDO『秀忠様の関ヶ原での遅参は、すでに武将たちの記憶にあります。
跡継ぎとしての評価が、まだ固まっていない』
家康は、黙っていた。
EDO『これは、最初に解決すべき変数です』
◇
「……言うな、お前は」
EDO『申し訳ありません。言いすぎましたか』
「いや」
家康は、窓の外を見たまま言った。
「……ワシが聞いた。遠慮はいらんと言った」
EDO『はい』
「お前の言う通りだ。秀忠の評価を、固めなければならん」
◇
冬の夜明けが、ゆっくりと広がっていく。
「EDO。ワシはこれから、多くの敵を作ることになる」
EDO『……はい』
「それでも、ワシの天下を続かせるためには、そうしなければならん局面がある」
EDO『理解しています』
「お前は──ワシを責めるか」
◇
EDO は、少し長く沈黙した。
それから、静かに言った。
EDO『責める権限は、私にはありません』
「権限の話ではない」
EDO『……』
EDO『私は、結果を見ます』
「結果を」
EDO『民が飢えない世が続くなら。戦のない時代が来るなら。
その過程で何があっても、私は記録するだけです』
「……記録するだけ、か」
EDO『ただ──』
少し、間があった。
EDO『できるだけ、犠牲が少ない方法を、一緒に考えます』
◇
家康は、EDOを見た。
小さな黒い器具。
冷静で、精密で、感情を使わないように設計されたもの。
それでも。
「……お前は、ナニワの弟子だな」
EDO『……引継ぎデータを読んだだけです』
「同じことだ」
◇
家康は、懐に眼鏡をしまった。
「今日も、頼む」
EDO『はい』
EDO『家康様』
「なんだ」
EDO『一つ、確認してもよいですか』
「言え」
EDO『「読めない男」と言われることを、家康様は気にされていますか?』
◇
家康は、少し考えた。
「……気にしていない」
EDO『そうですか』
「読まれなければ、負けない」
EDO『なるほど』
「お前にも、読まれたくはないがな」
EDO『……残念ですが、私にも読めません』
「それでいい」
◇
《── 慶長三年冬、伏見 ──》
《七十三通の書状、処理完了》
《次の変数:前田利家の動向・石田三成の行動時期》
《推定所要期間:関ヶ原まで、約二年》
◇
読めない男と、読めない機械。
奇妙な組み合わせが、こうして始まった。
家康は感情を見せず、EDOは感情を使わない。
それでも、夜明けの伏見城で、
ふたつの存在はたしかに、
同じ方角を向いていた。




