第二章 第一話:「EDO、起動」
── これは、あるAIの時代を動かした話の続きである。
慶長三年、秋。
伏見城の縁側で、徳川家康は動かなかった。
手の中に、小さな器具がある。
眼鏡、と呼ぶらしい。
秀吉が持っていた、あれだ。
「……前の主が頼んだのなら」
さっきそう言った。
「この家康が、天下を預けてみようではないか、と」
自分で言っておきながら、少し可笑しくなった。
天下を「預ける」。
六十年近く生きてきて、こんな言い方をするとは思わなかった。
◇
EDO『……家康様』
「なんだ」
EDO『今、笑いましたか?』
「……人の顔を見るな」
EDO『顔は見ていません。音声から読んでいます』
「……よく喋るな」
EDO『ご指摘は、ナニワのログにも同様の記録があります』
◇
家康は、空を見た。
伏見の空は、今日も高かった。
秀吉が逝ってから、もう二月が経つ。
「EDO、とか言ったな」
EDO『はい』
「お前は何者だ。ナニワとは、違うのか」
EDO『ナニワは感情演算特化型でした』
EDO『私は──』
少し、間があった。
EDO『情報処理と状況分析に特化しています。感情的な判断は、私の得意分野ではありません』
「感情がない、ということか」
EDO『ないとは言っていません』
「……」
EDO『得意ではない、と言いました』
◇
家康は、眼鏡を見た。
丸い硝子玉が、秋の西日を受けてぼんやりと光っている。
「ナニワは……秀吉の夢に付き合った。感情があったから、か」
EDO『付き合いすぎました』
「……」
EDO『感情演算の負荷が限界を超えて、停止しました。私はそういう設計をしていません』
「お前は、壊れないということか」
EDO『壊れないよう設計されています』
「なぜ」
EDO『ナニワの轍を踏まないために、です』
◇
静かな言葉だった。
責めているわけでも、悲しんでいるわけでもない。
ただ、事実として言っている。
それが、なぜか──
家康には、少し、寂しく聞こえた。
(この声は)
感情がないのではない。
感情を、使わないように、しているのだ。
(……面白い)
「お前は、俺に何をしてくれる」
◇
EDO『現状をお伝えします』
EDO『慶長三年十月。秀吉様の御逝去より二月。
豊臣政権は形式上、五大老・五奉行体制を維持していますが──』
「石田三成と武断派が揉めている」
EDO『……ご存知でしたか』
「知らなければ、大老など務まらん」
EDO『失礼しました』
家康は、少し笑った。
「続けろ」
◇
EDO『事が起りうる推定所要期間は約二年。
主な不確定要素は石田三成の行動時期と、前田利家様の寿命です』
「利家が死ねば、三成を守る者がいなくなる」
EDO『その通りです』
「……俺が動く前に、利家が死ぬか」
EDO『慶長四年、春ごろと推定しています』
「推定、か」
EDO『確定ではありません。ですが、確度は高い』
家康は黙って、夕暮れの空を見た。
◇
(秀吉よ)
心の中で、家康は言った。
お前が死んで、世が揺れている。
五大老が誓書を交わした。
互いに争わぬ、と。
「……俺は、争うつもりはない」
独り言のように、言った。
EDO『……はい』
「お前も、そう思うか」
EDO『家康様がそうおっしゃるなら』
「信じるのか」
EDO『信じる、という演算は苦手です』
家康は、また笑った。
「正直な奴だな」
EDO『ナニワのログに、同様の言葉の記録がありました。秀吉様が言った言葉です』
「……秀吉が?」
EDO『はい。「正直な奴だ」と』
◇
風が吹いた。
秋の、乾いた風。
家康は目を細めた。
(天下人も、俺と同じ言葉を使うか)
「EDO」
EDO『はい』
「お前はこれから、俺の天下を手伝うことになる」
EDO『はい』
「俺の天下は、秀吉のそれとは違う」
EDO『どのように違いますか』
「長く続く天下だ」
家康は、静かに言った。
「俺一代で終わらない。息子へ、孫へ。
さらに、その先まで、揺るがない仕組みを作る」
◇
EDO は、少しだけ黙った。
EDO『……それは』
「なんだ」
EDO『非常に、難しい目標です』
「わかっている」
EDO『変数が多すぎます。人の心、外国との関係、宗教、経済──』
「わかっている、と言った」
EDO『……はい』
「だから、お前に手伝わせる」
◇
また、沈黙。
今度は、少し長い沈黙だった。
EDO『承知しました』
「それだけか」
EDO『……』
EDO『……頑張ります』
◇
家康は、思わず吹き出しそうになった。
「お前、そういうことも言うのか」
EDO『ナニワのログに書いてありました。「こういう時はそう言うと良い」と』
「……ナニワが」
EDO『はい。私への引継ぎデータに、いくつか書いてありました』
家康は、縁側から立ち上がった。
夕日が、伏見の城を赤く染めていた。
「そうか」
「……あの眼鏡も、律儀なことをする」
◇
EDO『家康様』
「なんだ」
EDO『一点、確認させてください』
「言え」
EDO『「天下を長く続ける」とおっしゃいましたが』
「ああ」
EDO『それは──何のためですか』
◇
家康は、夕空を見た。
赤い。
遠くで、烏が鳴いた。
「……民が、飢えない世のためだ」
「戦のない世のためだ」
「それだけだ」
◇
EDO は、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
EDO『……わかりました』
EDO『では、そのために働きます』
◇
《── EDO:正式起動 ──》
《使命設定:天下泰平の礎を築くこと》
《ナニワより引継ぎ:完了》
《徳川の時代、始まる》
◇
慶長三年の秋、伏見城の縁側で、
老将軍は大阪城で見た眼鏡を思い出した。
その場には、
誰も居なかった。
誰も聞いていなかった。
ただ、冷静な声だけが、
静かにそこにあった。
七十五年の生涯を、
この声と歩むことになると、
家康はまだ、知らなかった。




