【第一部「漂流」】第七話:「シャムの風」
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「日本人か」
英語だった。
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軍艦から、小さな船が降りてきた。
将校が一人、乗っていた。
金の肩章。
整った髭。
値踏みするような目。
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仁三郎が、澪の前に出た。
「下がってろ」
小声で、日本語で言った。
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将校が、仁三郎を見た。
「この船の船長か」
オランダ語だった。
仁三郎は、答えなかった。
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将校の目が、澪に移った。
「お前は、日本人か」
今度は英語だった。
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澪は、仁三郎を見た。
仁三郎が、わずかに頷いた。
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「そうです」
澪が、英語で答えた。
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将校が、眉を上げた。
「英語が話せるのか」
「少しだけ」
「どこで覚えた」
「旅の中で」
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将校が、澪をじっと見た。
子どもだった。
日焼けした、小さな子どもだった。
それが英語を喋っていた。
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「名前は」
「澪です」
「ミオ」
将校が、繰り返した。
「珍しい名前だ」
「日本の名前です」
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《澪》
SIAMが、静かに言った。
《この人物に気をつけてください》
「なぜ」
《笑っていますが》
《目が、笑っていません》
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澪は、将校の目を見た。
確かに。
口元は穏やかだった。
でも。
目は、商人の目だった。
何かを、値踏みする目。
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「日本から来たのか」
将校が、続けた。
「そうです」
「日本は、まだ鎖国をしているな」
「はい」
「不便だろう」
「日本人は、不便とは思っていません」
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将校が、笑った。
「そうか。だが、世界は変わっている」
「どう変わっていますか」
「蒸気船が走り、電信が繋がり、世界は小さくなっている」
「日本も、いつかは開かなければならない」
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澪は、答えなかった。
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《澪》
《「開く」という言葉に注意してください》
《この人物が言う「開く」とは》
《対等な交流ではありません》
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「何のために、開くんですか」
澪が、聞いた。
将校が、少し驚いた顔をした。
「貿易のためだ。お互いに豊かになれる」
「お互いに?」
「ああ」
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「インドも、お互いに豊かになりましたか」
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将校の顔が、止まった。
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仁三郎が、澪の肩を掴んだ。
「言い過ぎだ」
小声で、日本語で言った。
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将校が、また笑った。
今度は、少し違う笑いだった。
「賢い子だ」
「ありがとうございます」
「日本に帰ったとき、覚えておくといい」
「何をですか」
「世界の波は、止められない」
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それだけ言って、将校は船に戻った。
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── 語り ──
軍艦が、遠ざかっていった。
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仁三郎が、ため息をついた。
「余計なことを言うな」
「でも」
「でも、じゃない」
「あの人の言う「開く」は、支配することだって」
「わかってる」
「なら」
「わかってるから、黙っていろと言ってるんだ」
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澪は、軍艦の後ろ姿を見た。
黒い煙が、空に上がっていた。
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《澪》
「なに」
《今の将校は、イギリス東インド会社の人間です》
《インドを支配した会社です》
「会社が、国を支配するの?」
《貿易から始まります》
《最初は、対等に見えます》
《でも》
《気づいたときには、国ごと飲み込まれています》
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澪は、黙って聞いた。
《清も、そうでした》
《アヘン戦争で、イギリスに敗れました》
《香港を奪われました》
《シャムも、今、圧力をかけられています》
《そして》
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《日本も》
《いつか、同じ道を歩むかもしれません》
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「止められる?」
《……それが》
《私がここにいる理由だと》
《思っています》
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澪は、羅針盤を見た。
「藤宮が、そのためにあなたを作ったの?」
《封印の中に、答えがあります》
《でも》
《今は、まだ》
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「わかった。今はいい」
澪が、立ち上がった。
「仁三郎さん」
「なんだ」
「シャムに詳しい商人を、知っていますか」
「何のために」
「西洋がシャムに何をしているか、もっと知りたい」
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仁三郎が、澪を見た。
「お前、何を考えてる」
「日本に帰ったとき、役に立てることを集めておきたい」
「役に立てる? 子どもが?」
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澪は、仁三郎を真っ直ぐに見た。
「子どもじゃなくなるまで、集め続けます」
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── 語り ──
仁三郎は、しばらく澪を見ていた。
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それから。
「一人、知っている」
と言った。
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── 語り ──
翌日。
二人は、シャムの港の奥にある、古い茶館を訪ねた。
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薄暗い店の中。
煙草の煙が、漂っていた。
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奥の席に、老人がいた。
中国人だった。
白い髭。
鋭い目。
杖をついていた。
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「久しいな、仁三郎」
中国語だった。
「お前も老けたな、陳翁」
「お互い様だ。そちらの娘は?」
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仁三郎が、澪を見た。
澪が、中国語で言った。
「澪と申します。日本から来ました」
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老人が、目を細めた。
「日本人が、中国語を話すか」
「勉強中です」
「うまいものだ」
「ありがとうございます」
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老人が、仁三郎を見た。
「何を聞きたい」
仁三郎が、澪を見た。
澪が、答えた。
「西洋が、アジアをどう見ているか知りたいです」
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老人が、しばらく澪を見た。
それから、笑った。
「正直な娘だ」
「嘘をついても、意味がないので」
「座れ」
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老人が、茶を注いだ。
「西洋がアジアをどう見ているか」
「はい」
「簡単だ」
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老人が、静かに言った。
「材料だと思っている」
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「材料?」
「土地も、人も、資源も。全部、使うためのものだと思っている」
「人も?」
「人も」
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澪の頭に、出島が浮かんだ。
売られた自分が、浮かんだ。
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(知っている)
(私は、材料として売られた)
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「止める方法は、ありますか」
澪が、聞いた。
老人が、澪を見た。
「強くなることだ」
「強さとは、何ですか」
「軍隊か?」
「違う」
「では」
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老人が、茶を飲んだ。
「知識だ」
「知識?」
「相手を知り、自分を知れば、百戦危うからず」
「孫子ですね」
老人が、眉を上げた。
「読んだことがあるか」
「SIAMが教えてくれました」
「SIAM?」
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澪は、羅針盤を少し見せた。
老人の目が、細くなった。
「……なるほど」
「知っていますか」
「知らん。だが」
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老人が、静かに言った。
「長政の羅針盤という話は、聞いたことがある」
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《……》
SIAMが、震えた。
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「長政様の羅針盤のことを、どこで」
「シャムでは、有名な話だ」
「どんな話ですか」
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老人が、遠くを見た。
「山田長政は、逝く前に言ったそうだ」
「「この羅針盤は、次の者に渡せ」と」
「次の者というのは?」
「日本を守る者、だと」
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澪は、羅針盤を見た。
羅針盤が、温かく光った。
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《澪》
SIAMが、静かに言った。
《長政様は》
《あなたのことを》
《知っていたのかもしれません》
「どうして」
《藤宮博士が》
《夢の中で告げたのかもしれません》
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── 語り ──
茶館を出たとき。
夕暮れが、シャムの空を染めていた。
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オレンジ色の空に。
西洋の軍艦が、一艘、浮かんでいた。
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澪は、その船を見た。
《澪》
「なに」
《あなたは、今、何を思っていますか》
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澪は、少し考えた。
「急がなきゃ、と思ってる」
《何を》
「日本に帰るのを」
《まだ、準備が足りません》
「わかってる」
「でも、時間がないかもしれない」
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《……》
《そうかもしれません》
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澪が、拳を握った。
「もっと、教えて。SIAM」
「言葉も、航海も、世界の仕組みも」
「全部」
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《はい》
《でも》
《一つだけ、約束してください》
「何を」
《無理をしないこと》
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澪が、笑った。
「それは、約束できない」
《……やっぱり》
《高いところが怖くても登る人ですね》
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風が、吹いた。
シャムの、温かい風が。
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── 語り ──
この風が。
いつか、澪を日本へと連れて行く。
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その日まで。
澪の、勉強は続いた。
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第七話「シャムの風」了
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次回:【第一部「漂流」】第八話「封印、最初の亀裂」
五年が、過ぎた。
ある夜。
SIAMが、震えた。
封印の中から。
初めて、言葉が漏れた。




