【第一部「漂流」】第六話:「言葉の海」
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「お前、いくらだ」
男が、タイ語で言った。
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澪は、振り返った。
港の男だった。
大柄で、目つきが悪かった。
澪の荷物を、指さしていた。
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「これは売り物じゃない」
澪が、タイ語で答えた。
「高く買う」
「売らない」
「なぜだ」
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澪は、男の目を見た。
逸らさなかった。
「私のものだから」
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男が、鼻で笑った。
「女が一人で商売か」
「一人じゃない」
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《澪。この男、後ろに二人います》
SIAMが、静かに言った。
「知ってる」
《右の男は刃物を持っています》
「知ってる」
《どうしますか》
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澪は、荷物を置いた。
両手を、見せた。
「私は武器を持っていない」
男が、一歩近づいた。
「なら——」
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「何をしている」
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仁三郎の声が、した。
低かった。
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男が、振り返った。
仁三郎が立っていた。
何も持っていなかった。
ただ、立っていた。
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男たちが、顔を見合わせた。
それから、足早に去った。
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仁三郎が、澪の隣に来た。
「怪我はないか」
「ありません」
「タイ語、うまくなったな」
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それだけ言って、歩き始めた。
澪は、荷物を拾って後を追った。
(褒められた)
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── 語り ──
三年が、過ぎていた。
七歳で売られた澪は。
今、十歳になっていた。
三年で、澪は変わった。
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タイ語は、日常会話なら不自由しなかった。
中国語は、交易に使える程度には話せた。
英語は、まだ難しかった。
オランダ語は、出島で覚えた土台があった。
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《今日の中国語の復習です》
SIAMが言った。
「また?」
《毎日やることが大事です》
「昨日もやった」
《昨日の続きです》
「……わかった」
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── 語り ──
SIAMは、厳しかった。
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優しかった。
でも、厳しかった。
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「ここは、どう読む」
《「万」は「ワン」です。でも文脈によって変わります》
「変わるの?」
《中国語は、声調が四つあります》
「四つ」
《同じ音でも、上がるか下がるかで意味が変わります》
「難しい」
《でも、澪はすでにタイ語の声調を覚えました》
《できます》
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できます。
SIAMは、よくその言葉を使った。
できない、とは言わなかった。
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(出島のヘンドリックと、似ている)
澪は、思った。
(怒鳴らない。ただ、指さす)
(でも、SIAMは「できます」と言ってくれる)
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── 語り ──
航海術も、学んだ。
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《今夜の星を見てください》
「見てる」
《南十字星はどこですか》
「あっち」
《正確には、少し右です》
「……あっち」
《そうです。南十字星が見えれば、南の方角がわかります》
《北極星が見えれば、北がわかります》
《この二つさえ覚えれば》
《夜の海でも、迷いません》
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「羅針盤があるのに、なぜ星を覚えるの」
《羅針盤が壊れたとき、どうしますか》
澪は、黙った。
《道具は、壊れます》
《でも、空は壊れません》
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仁三郎が、遠くから聞いていた。
何も言わなかった。
でも。
口元が、かすかに上がっていた。
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── 語り ──
交易も、覚えた。
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仁三郎の船に乗り、シャム・中国・オランダ商人たちと渡り合った。
最初は、荷物を運ぶだけだった。
次に、言葉を訳すようになった。
そして。
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「この値段では買えない」
澪が、中国商人に言った。
中国語で。
「なぜだ」
「シャムでは今、同じ品物が安く出ている」
「それは古い情報だ」
「三日前の情報です」
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《シャム市場の最新価格、お伝えします》
SIAMが、澪だけに聞こえる声で言った。
澪が、その数字を自然に口にした。
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商人が、目を細めた。
「……どこでその情報を」
「私の相棒から」
「相棒?」
澪は、羅針盤をちらりと見た。
「頼りになる相棒です」
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商人が、値段を下げた。
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帰り道。
仁三郎が、初めて笑った。
「やるじゃないか」
澪は、驚いた。
三年で、初めて見る笑顔だった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。飯を多くやる」
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それだけだった。
でも、澪には十分だった。
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── 語り ──
ある夜。
SIAMが、珍しく自分から話しかけてきた。
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《澪》
「なに」
《一つ、聞いてもいいですか》
「どうぞ」
《怖くないですか》
「何が」
《帰ること》
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澪は、星を見た。
「怖い」
《なぜ帰るんですか》
「前に言ったでしょ。桜を見たいから」
《それだけですか》
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澪は、少し考えた。
「……お母さんが、生きているかどうか、確かめたい」
《会いに行きますか》
「会えないと思う」
「売った娘が帰ってきても、困るだろうから」
《……》
「でも、生きているかどうかだけ、知りたい」
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SIAMが、黙った。
しばらくして、言った。
《澪》
《私も、一つ教えます》
「何を」
《長政様が、最後に書いた言葉です》
《封印の外に、一つだけ残っていました》
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澪は、羅針盤を見た。
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《「海を渡る者は、故郷を忘れない」》
《《《長政様は、最後まで日本を忘れませんでした》》》
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澪は、目を閉じた。
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(私も、忘れていない)
(村の匂い)
(母の手)
(売られた朝の、冷たい空気)
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全部、覚えていた。
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「SIAM」
《はい》
「日本に帰ったら、何が待ってるの」
《激流、です》
「激しい?」
《はい》
「私に、耐えられる?」
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SIAMが、少し間を置いた。
《耐えるのではありません》
《渡るのです》
《澪は、激流を渡れます》
「なぜそう思う」
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《高いところが怖くても》
《登る人だから》
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澪が、笑った。
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── 語り ──
翌朝。
仁三郎が、帆を張っていた。
澪が、手伝いながら聞いた。
「仁三郎さん。日本語、私に教えてくれてありがとうございます」
「お前は最初から日本語が喋れた」
「でも、読み書きは仁三郎さんが教えてくれた」
「……そうだったか」
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仁三郎が、帆から手を離さずに言った。
「お前は、いつか日本へ帰るんだろう」
「はい」
「そうか」
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「仁三郎さんは、来ませんか」
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仁三郎が、止まった。
しばらく、黙っていた。
「……考えておく」
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帆が、風を受けた。
船が、動き始めた。
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── 語り ──
その日。
仁三郎の船は、新しい港へ向かっていた。
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シャムの港を出て。
南シナ海を渡り。
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《澪》
「なに」
《前方に、別の船がいます》
「どんな船」
《……旗が、見えます》
《イギリスの、軍艦です》
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仁三郎の顔が、険しくなった。
「澪。下に降りろ」
「なぜ」
「いいから」
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《澪》
SIAMが、低い声で言った。
《あの軍艦は》
《アジアの港を》
《次々と支配下に置いています》
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澪は、軍艦を見た。
黒い、大きな船だった。
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《これが》
《世界の、今です》
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《日本も》
《いつか、あの船に狙われます》
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風が、冷たくなった気がした。
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第六話「言葉の海」了
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次回:【第一部「漂流」】第七話:「シャムの風」
イギリス軍艦の船長が、澪に話しかけてきた。
「お前は、日本人か」




