表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
105/108

【第一部「漂流」】第六話:「言葉の海」

────────────────────

「お前、いくらだ」

男が、タイ語で言った。

────────────────────

澪は、振り返った。

港の男だった。

大柄で、目つきが悪かった。

澪の荷物を、指さしていた。

────────────────────

「これは売り物じゃない」

澪が、タイ語で答えた。

「高く買う」

「売らない」

「なぜだ」

────────────────────

澪は、男の目を見た。

逸らさなかった。

「私のものだから」

────────────────────

男が、鼻で笑った。

「女が一人で商売か」

「一人じゃない」

────────────────────

《澪。この男、後ろに二人います》

SIAMが、静かに言った。

「知ってる」

《右の男は刃物を持っています》

「知ってる」

《どうしますか》

────────────────────

澪は、荷物を置いた。

両手を、見せた。

「私は武器を持っていない」

男が、一歩近づいた。

「なら——」

────────────────────

「何をしている」

────────────────────

仁三郎の声が、した。

低かった。

────────────────────

男が、振り返った。

仁三郎が立っていた。

何も持っていなかった。

ただ、立っていた。

────────────────────

男たちが、顔を見合わせた。

それから、足早に去った。

────────────────────

仁三郎が、澪の隣に来た。

「怪我はないか」

「ありません」

「タイ語、うまくなったな」

────────────────────

それだけ言って、歩き始めた。

澪は、荷物を拾って後を追った。

(褒められた)

────────────────────

── 語り ──

三年が、過ぎていた。

七歳で売られた澪は。

今、十歳になっていた。

三年で、澪は変わった。

────────────────────

タイ語は、日常会話なら不自由しなかった。

中国語は、交易に使える程度には話せた。

英語は、まだ難しかった。

オランダ語は、出島で覚えた土台があった。

────────────────────

《今日の中国語の復習です》

SIAMが言った。

「また?」

《毎日やることが大事です》

「昨日もやった」

《昨日の続きです》

「……わかった」

────────────────────

── 語り ──

SIAMは、厳しかった。

────────────────────

優しかった。

でも、厳しかった。

────────────────────

「ここは、どう読む」

《「万」は「ワン」です。でも文脈によって変わります》

「変わるの?」

《中国語は、声調が四つあります》

「四つ」

《同じ音でも、上がるか下がるかで意味が変わります》

「難しい」

《でも、澪はすでにタイ語の声調を覚えました》

《できます》

────────────────────

できます。

SIAMは、よくその言葉を使った。

できない、とは言わなかった。

────────────────────

(出島のヘンドリックと、似ている)

澪は、思った。

(怒鳴らない。ただ、指さす)

(でも、SIAMは「できます」と言ってくれる)

────────────────────

── 語り ──

航海術も、学んだ。

────────────────────

《今夜の星を見てください》

「見てる」

《南十字星はどこですか》

「あっち」

《正確には、少し右です》

「……あっち」

《そうです。南十字星が見えれば、南の方角がわかります》

《北極星が見えれば、北がわかります》

《この二つさえ覚えれば》

《夜の海でも、迷いません》

────────────────────

「羅針盤があるのに、なぜ星を覚えるの」

《羅針盤が壊れたとき、どうしますか》

澪は、黙った。

《道具は、壊れます》

《でも、空は壊れません》

────────────────────

仁三郎が、遠くから聞いていた。

何も言わなかった。

でも。

口元が、かすかに上がっていた。

────────────────────

── 語り ──

交易も、覚えた。

────────────────────

仁三郎の船に乗り、シャム・中国・オランダ商人たちと渡り合った。

最初は、荷物を運ぶだけだった。

次に、言葉を訳すようになった。

そして。

────────────────────

「この値段では買えない」

澪が、中国商人に言った。

中国語で。

「なぜだ」

「シャムでは今、同じ品物が安く出ている」

「それは古い情報だ」

「三日前の情報です」

────────────────────

《シャム市場の最新価格、お伝えします》

SIAMが、澪だけに聞こえる声で言った。

澪が、その数字を自然に口にした。

────────────────────

商人が、目を細めた。

「……どこでその情報を」

「私の相棒から」

「相棒?」

澪は、羅針盤をちらりと見た。

「頼りになる相棒です」

────────────────────

商人が、値段を下げた。

────────────────────

帰り道。

仁三郎が、初めて笑った。

「やるじゃないか」

澪は、驚いた。

三年で、初めて見る笑顔だった。

「……ありがとうございます」

「礼はいらん。飯を多くやる」

────────────────────

それだけだった。

でも、澪には十分だった。

────────────────────

── 語り ──

ある夜。

SIAMが、珍しく自分から話しかけてきた。

────────────────────

《澪》

「なに」

《一つ、聞いてもいいですか》

「どうぞ」

《怖くないですか》

「何が」

《帰ること》

────────────────────

澪は、星を見た。

「怖い」

《なぜ帰るんですか》

「前に言ったでしょ。桜を見たいから」

《それだけですか》

────────────────────

澪は、少し考えた。

「……お母さんが、生きているかどうか、確かめたい」

《会いに行きますか》

「会えないと思う」

「売った娘が帰ってきても、困るだろうから」

《……》

「でも、生きているかどうかだけ、知りたい」

────────────────────

SIAMが、黙った。

しばらくして、言った。

《澪》

《私も、一つ教えます》

「何を」

《長政様が、最後に書いた言葉です》

《封印の外に、一つだけ残っていました》

────────────────────

澪は、羅針盤を見た。

────────────────────

《「海を渡る者は、故郷を忘れない」》

《《《長政様は、最後まで日本を忘れませんでした》》》

────────────────────

澪は、目を閉じた。

────────────────────

(私も、忘れていない)

(村の匂い)

(母の手)

(売られた朝の、冷たい空気)

────────────────────

全部、覚えていた。

────────────────────

「SIAM」

《はい》

「日本に帰ったら、何が待ってるの」

《激流、です》

「激しい?」

《はい》

「私に、耐えられる?」

────────────────────

SIAMが、少し間を置いた。

《耐えるのではありません》

《渡るのです》

《澪は、激流を渡れます》

「なぜそう思う」

────────────────────

《高いところが怖くても》

《登る人だから》

────────────────────

澪が、笑った。

────────────────────

── 語り ──

翌朝。

仁三郎が、帆を張っていた。

澪が、手伝いながら聞いた。

「仁三郎さん。日本語、私に教えてくれてありがとうございます」

「お前は最初から日本語が喋れた」

「でも、読み書きは仁三郎さんが教えてくれた」

「……そうだったか」

────────────────────

仁三郎が、帆から手を離さずに言った。

「お前は、いつか日本へ帰るんだろう」

「はい」

「そうか」

────────────────────

「仁三郎さんは、来ませんか」

────────────────────

仁三郎が、止まった。

しばらく、黙っていた。

「……考えておく」

────────────────────

帆が、風を受けた。

船が、動き始めた。

────────────────────

── 語り ──

その日。

仁三郎の船は、新しい港へ向かっていた。

────────────────────

シャムの港を出て。

南シナ海を渡り。

────────────────────

《澪》

「なに」

《前方に、別の船がいます》

「どんな船」

《……旗が、見えます》

《イギリスの、軍艦です》

────────────────────

仁三郎の顔が、険しくなった。

「澪。下に降りろ」

「なぜ」

「いいから」

────────────────────

《澪》

SIAMが、低い声で言った。

《あの軍艦は》

《アジアの港を》

《次々と支配下に置いています》

────────────────────

澪は、軍艦を見た。

黒い、大きな船だった。

────────────────────

《これが》

《世界の、今です》

────────────────────

《日本も》

《いつか、あの船に狙われます》

────────────────────

風が、冷たくなった気がした。

────────────────────

第六話「言葉の海」了

────────────────────

次回:【第一部「漂流」】第七話:「シャムの風」

イギリス軍艦の船長が、澪に話しかけてきた。

「お前は、日本人か」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ