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【第一部「漂流」】第五話:「封印」

次回:【第一部「漂流」】第六話「言葉の海」

三年が、過ぎた。

澪は、変わっていた。

仁三郎が、初めて笑った。

────────────────────

「死ぬ気か」

仁三郎が、呆れた顔で言った。

────────────────────

澪は、帆の上にいた。

マストの、てっぺん近くだった。

────────────────────

「降りてこい」

「もう少しだけ」

「落ちたら死ぬ」

「落ちません」

────────────────────

風が、強かった。

海が、どこまでも広がっていた。

────────────────────

(広い)

(こんなに広い世界が、あったのか)

────────────────────

村にいたとき。

澪の世界は、山と田んぼだけだった。

出島にいたとき。

澪の世界は、あの小さな島だけだった。

────────────────────

今。

どこまでも続く海が、目の前にあった。

────────────────────

《澪》

羅針盤が、呼んだ。

「なに」

《怖くないですか》

「何が」

《高いところ》

「怖い」

《では、なぜ登ったんですか》

────────────────────

澪は、水平線を見た。

「怖いから、登った」

《……》

《それは、どういう意味ですか》

「怖いままでいたくないから」

────────────────────

SIAMが、しばらく黙った。

《……なるほど》

《人間は》

《不思議な生き物ですね》

────────────────────

── 語り ──

シャムでの生活が、始まって十日が過ぎた。

────────────────────

仁三郎は、口数が少なかった。

だが、必要なことは教えてくれた。

魚の捌き方。

帆の張り方。

潮の読み方。

星で方角を知る方法。

────────────────────

澪は、覚えた。

覚えるのは、得意だった。

出島でオランダ語を覚えたように。

怒られる前に、やることをやるように。

────────────────────

ある夜。

SIAMが言った。

《澪》

「なに」

《一つ、試してもいいですか》

「何を」

《あなたの記憶力を》

────────────────────

「記憶力?」

《はい。私はたくさんの言語を記録しています》

《教えましょうか》

「言語を?」

《タイ語。中国語。英語。オランダ語はすでに知っていますね》

────────────────────

澪は、羅針盤を見た。

「なぜ、私に教えるの」

《……》

SIAMが、少し間を置いた。

《あなたに必要だと、思うからです》

「なぜ必要なの」

《それは——》

────────────────────

SIAMが、止まった。

────────────────────

《……言えません》

「なぜ」

《封印されています》

────────────────────

澪は、眉を寄せた。

「また封印。何が封印されてるの」

《私にも、わかりません》

《ただ》

《この領域には、入れないんです》

────────────────────

《見てもらえますか》

────────────────────

羅針盤が、光った。

淡い光の中に、何かが浮かんだ。

扉のような、形だった。

────────────────────

《ここです》

《私の中に、閉じられた場所がある》

《鍵がかかっています》

《私には開けられない》

────────────────────

「誰が閉めたの」

《……私を作った人が》

「作った人?」

《はい》

《私は、誰かに作られました》

《長政様ではありません》

《もっと——ずっと先の時代の》

────────────────────

澪が、息を呑んだ。

「先の時代?」

《はい》

《私の中には》

《この時代には存在しないはずの記録が》

《あります》

────────────────────

「どんな記録」

《それも、封印の中にあります》

《ただ》

────────────────────

SIAMが、また止まった。

今度は、長かった。

────────────────────

「SIAM?」

《……一つだけ》

《封印の外に、漏れている言葉があります》

「何て書いてある」

────────────────────

《フジミヤ》

────────────────────

澪は、聞き返した。

「フジミヤ?」

《はい》

《人の名前だと思います》

《私を作った人の》

────────────────────

「藤宮……」

《知っていますか》

「知らない」

《私も、知りません》

《でも》

《この名前だけは》

《ずっと、ここにあります》

────────────────────

── 語り ──

藤宮。

その名前が。

澪の頭の中に、残った。

────────────────────

翌朝。

澪は、仁三郎に聞いた。

「藤宮という名前を、知っていますか」

────────────────────

仁三郎の手が、止まった。

魚を捌いていた手が。

────────────────────

「……どこで聞いた」

「SIAMが教えてくれました」

「羅針盤が」

「はい」

────────────────────

仁三郎は、しばらく黙っていた。

海を見た。

魚に戻った。

────────────────────

「知らん」

────────────────────

嘘だと、思った。

────────────────────

(知っている)

(でも、言えない理由がある)

────────────────────

澪は、それ以上聞かなかった。

出島で覚えたことがあった。

聞いてはいけないことがある、と。

────────────────────

── 語り ──

その夜。

仁三郎が、一人で酒を飲んでいた。

澪は、気づかないふりをした。

────────────────────

だが。

仁三郎が、ぽつりと言った。

「先祖から、聞いた話がある」

澪は、黙って座った。

────────────────────

「長政様が逝く前に、不思議なことがあったらしい」

「不思議なこと?」

「夢を見た、と言ったそうだ」

「どんな夢ですか」

────────────────────

仁三郎が、盃を置いた。

「遠い未来から来た人間が、夢の中に現れた」

「……未来?」

「ああ」

「その人は、何と言ったんですか」

────────────────────

仁三郎が、空を見た。

「『日本を頼む』と言ったそうだ」

────────────────────

《……》

羅針盤が、震えた。

────────────────────

「その人の名前は」

澪が、聞いた。

────────────────────

仁三郎が、静かに答えた。

「藤宮、と名乗ったらしい」

────────────────────

羅針盤が、強く光った。

《……》

《藤宮博士》

────────────────────

声にならない声が、した。

澪だけに、聞こえた。

────────────────────

《私は》

《あなたに会いたかった》

────────────────────

それだけ言って。

SIAMは、静かになった。

────────────────────

波の音だけが、残った。

────────────────────

澪は、羅針盤を握りしめた。

「SIAM」

《……はい》

「藤宮って人は、何者なの」

《わかりません》

《でも》

《私を作った人です》

《そして》

────────────────────

《あなたを、待っていた人です》

────────────────────

「私を?」

《はい》

《あなたが羅針盤を手にしたとき》

《私は、確信しました》

《これが》

《藤宮博士の言っていた「その人」だ、と》

────────────────────

澪は、しばらく黙っていた。

────────────────────

「私は、売られた村娘だよ」

《はい》

「何の力もない」

《今は》

「日本語しか、まともに喋れない」

《今は》

────────────────────

SIAMが、静かに続けた。

《でも》

《あなたは、高いところが怖くても登る人です》

────────────────────

澪は、少し笑った。

「それが、何の役に立つの」

《世界を変える人間は》

《たいてい、そういう人です》

────────────────────

── 語り ──

南の夜が、深くなった。

────────────────────

仁三郎は、いつの間にか眠っていた。

澪は、星を見ていた。

────────────────────

北の空に、北極星があった。

「SIAM。あの星、なんていうの」

《北極星です》

《どの海にいても》

《あの星だけは、動きません》

「どこにいても、見える?」

《日本からも、見えます》

────────────────────

(日本)

────────────────────

澪は、北極星を見続けた。

────────────────────

母も、今頃この星を見ているだろうか。

────────────────────

「SIAM」

《はい》

「私、日本に帰れるかな」

────────────────────

SIAMは、すぐには答えなかった。

────────────────────

《帰れます》

《ただし》

《帰ったとき》

《日本は、あなたの知っている日本ではないかもしれません》

「どういうこと」

《日本が、変わろうとしています》

《大きく》

《激しく》

────────────────────

《その激流の中に》

《あなたは飛び込むことになります》

────────────────────

澪は、北極星を見た。

「それでも、帰りたい」

《なぜですか》

────────────────────

澪は、少し考えた。

「桜を、見たいから」

────────────────────

《桜》

「仁三郎さんに教えたんです。春になると、山が白くなるほど咲くって」

《……》

《きれいですか》

「きれいです」

《私は、見たことがありません》

「一緒に見よう」

────────────────────

《……》

《羅針盤には、目がありません》

「そうだけど」

「でも、感じることはできるでしょ」

────────────────────

《……》

《はい》

《感じる、ことは》

《できると思います》

────────────────────

澪が、笑った。

「約束だよ」

────────────────────

羅針盤が、温かく光った。

────────────────────

── 語り ──

その夜から。

澪の勉強が、始まった。

────────────────────

SIAMが教師になった。

タイ語。

中国語。

英語。

言葉を学ぶたびに。

世界が、広くなった。

────────────────────

売られた村娘が。

少しずつ。

世界を渡る女に、なっていった。

────────────────────

第五話「封印」了

────────────────────

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