【第一部「漂流」】第三話:「帆を張れ」
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目が覚めたとき。
空が、青すぎた。
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知っている青じゃなかった。
長崎の空より深く。
出島の空より広く。
どこまでも、突き抜けるような青だった。
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(生きてる)
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体を起こした。
砂だった。
白い砂が、どこまでも続いていた。
波が、穏やかに寄せては返していた。
あの嵐が、嘘のようだった。
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「起きたか」
声がした。
仁三郎が、少し離れたところに座っていた。
木を削っていた。
手が、止まらなかった。
澪を見なかった。
「腹は減ってるか」
「……はい」
「そこに、飯がある」
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木の葉の上に、白い塊があった。
恐る恐る口に入れた。
米だった。
日本の米とは少し違う。
でも、温かかった。
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(温かい)
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澪は、黙って食べた。
仁三郎も、黙って木を削り続けた。
波の音だけが、あった。
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「あの船に、他に人はいましたか」
澪が、聞いた。
仁三郎の手が、一瞬だけ止まった。
「……昨日、浜を全部歩いた」
「それで」
「見つからなかった」
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お福の顔が、浮かんだ。
半助の泣き声が、聞こえた気がした。
澪は、膝を抱えた。
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仁三郎が、立ち上がった。
「来い」
「どこへ」
「島を見せてやる」
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── 語り ──
島は、小さかった。
歩いて一周、半日もかからない。
だが、その小さな島に——
仁三郎の、すべてがあった。
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家があった。
板張りの、粗末な家だった。
でも、しっかりと建っていた。
「自分で建てたんですか」
「ああ」
「一人で」
「他に誰がいる」
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畑があった。
野菜が、青々と育っていた。
「これも」
「ああ」
「すごい」
「普通だ」
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船着き場があった。
小さな船が、一艘。
「これで、どこへ行くんですか」
仁三郎が、遠くを見た。
「シャム。中国。オランダ。どこへでも」
「一人で?」
「一人で」
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澪は、その横顔を見た。
日焼けした肌。
白くなりかけた髪の端。
深く刻まれた皺。
年は、五十を超えているだろうか。
(この人は、ずっと一人でここにいたのか)
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「名前は」
仁三郎が聞いた。
「澪です」
「澪か」
「はい」
「いい名前だ」
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それだけ言って、仁三郎は歩き始めた。
澪は、慌てて後を追った。
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── 語り ──
島での暮らしは、単純だった。
朝、起きる。
飯を作る。
畑を耕す。
魚を獲る。
飯を食う。
眠る。
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澪は、黙って手伝った。
聞かれないことは、聞かなかった。
言われたことだけをやった。
出島での癖が、まだ抜けなかった。
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三日目の夜。
仁三郎が、珍しく火のそばに座っていた。
「座れ」
澪は、向かいに座った。
しばらく、黙っていた。
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「お前は、なぜ日本を出た」
仁三郎が、火を見ながら言った。
澪は、少し間を置いた。
「売られました」
「……そうか」
「親に」
「……そうか」
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仁三郎は、何も言わなかった。
「可哀想だとか、そういうことは言わないんですね」
澪が、ぽつりと言った。
「言ってほしいか」
「……いいえ」
「なら、言わん」
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火が、揺れた。
「あんたは、なぜここにいるんですか」
今度は澪が聞いた。
仁三郎が、少し目を細めた。
「……日本にいられなかった」
「なぜ」
「持ってはいけないものを、持っていたから」
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(持ってはいけないもの)
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「それは、何ですか」
仁三郎は、答えなかった。
ただ、遠くを見た。
「いつか、わかる」
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── 語り ──
五日目。
仁三郎が、蔵の前に立っていた。
「来い」
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蔵は、家の裏にあった。
小さな、鍵のかかった蔵。
仁三郎が、鍵を開けた。
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中は、暗かった。
埃の匂いがした。
古い布に包まれた荷物が、積まれていた。
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仁三郎が、一番奥に進んだ。
棚の上に、木箱があった。
丁寧に、布で包まれていた。
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「開けてみろ」
「私が?」
「お前じゃなきゃ、意味がない」
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澪は、木箱を手に取った。
軽かった。
布をほどいた。
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羅針盤だった。
古い。
でも、美しかった。
金色の縁に、精巧な針。
日本のものじゃない。
どこの国のものかも、わからなかった。
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「綺麗」
澪が、呟いた。
「触れるか」
「いいですか」
「触れてみろ」
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澪が、羅針盤に手を触れた。
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その瞬間。
羅針盤が、光った。
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「っ!」
澪が、思わず手を引いた。
光は、消えなかった。
淡く、温かく、光り続けた。
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《……》
《接続確認》
《長い、時間が経ちました》
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声が、した。
羅針盤から。
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澪は、固まった。
仁三郎が、静かに言った。
「やっぱりな」
「……え」
「お前を待っていたんだ、こいつは」
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《あなたは》
《誰ですか》
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澪は、羅針盤を見た。
手が、震えていた。
でも。
逃げなかった。
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「……澪」
澪が、答えた。
「澪、です」
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《澪》
《……いい名前ですね》
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── 語り ──
その夜。
澪は、初めて泣いた。
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売られた夜も。
母と別れた朝も。
嵐で海に落ちた夜も。
泣かなかった。
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なぜ今夜、泣いているのか。
澪には、わからなかった。
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ただ。
羅針盤が、手の中で温かかった。
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(捨てられていない)
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その感覚が。
七歳から、ずっと忘れていた感覚が。
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胸の中で、溢れていた。
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《澪》
「……なに」
《泣いていますか》
「うるさい」
《すみません》
《でも》
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《私は、ずっと》
《誰かを待っていました》
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澪は、羅針盤を胸に抱いた。
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「私も」
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波の音が、遠かった。
星が、南の空に満ちていた。
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── 語り ──
翌朝。
仁三郎が、船の帆を張っていた。
澪が、近づいた。
「どこへ行くんですか」
「シャムだ。交易がある」
「私も、連れて行ってください」
仁三郎が、振り返った。
「役に立てるか」
「オランダ語が、少し話せます。中国語も、少し」
「少しばかりか」
「でも、こいつが助けてくれます」
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澪が、羅針盤を持ち上げた。
羅針盤が、かすかに光った。
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仁三郎が、しばらく澪を見た。
それから。
ため息をついた。
「……乗れ」
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澪が、船に飛び乗った。
帆が、風を受けた。
船が、動き始めた。
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《澪》
「なに」
《あの人は》
《山田長政の》
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SIAMが、言いかけた。
止まった。
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「どうした」
《……封印、されています》
《この先は、まだ》
「まだ?」
《時が来たら、話します》
「もったいぶるね」
《そういう設計なので》
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澪が、笑った。
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── 語り ──
笑ったのは。
売られた日以来、初めてだった。
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船が、波を切った。
島が、遠くなった。
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水平線の向こうに。
シャムの陸地が、霞んで見えた。
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その先に。
澪の知らない世界が、広がっていた。
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第三話「帆を張れ」了
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