【第一部「漂流」】第二話:「出島の檻」
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波が、船を飲み込もうとしていた。
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「掴まれ!」
船員が叫んだ。
澪は、柱にしがみついた。
雨が、横から叩きつけた。
風が、耳を塞いだ。
空が、真っ黒だった。
(死ぬ)
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── 語り ──
嵐は、突然だった。
長崎を出て、三日目の夜。
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「お福!」
澪は叫んだ。
返事がなかった。
波が来た。
澪の体が、宙に浮いた。
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── 語り ──
波に飲まれる寸前。
澪の頭に、出島の日々が流れた。
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── 回想:出島 ──
出島での朝は、早かった。
夜明け前に起き。
床を拭き。
食器を洗い。
荷物を運ぶ。
ヘンドリックは、仕事には厳しかった。
「もう一度」
床の拭き残しを指さす。
食器の汚れを指さす。
荷物の積み方を直す。
言葉は少なかった。
怒鳴らなかった。
ただ、指さした。
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澪は、覚えた。
怒鳴られるより、指さされる方が、ずっと怖かった。
(ちゃんとしなければ)
(どこかに、捨てられる)
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食事は、一日二回あった。
パンだった。
初めて食べた。
固かった。
でも、腹は膨れた。
村では、腹が減ることの方が多かった。
お福が小声で言った。
「美味しくはないけど、食えるね」
「うん」
「これだけで、十分かもしれん」
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夜。
澪とお福と、男の子——半助といった——は、同じ部屋に寝た。
「なあ」
半助が、暗闇の中で言った。
「俺たち、どこへ連れて行かれるんだろ」
「オランダ」
澪が答えた。
「なんでわかる」
「ヘンドリックさんの話し相手が、オランダの言葉で話してたから」
「……お前、わかるのか」
「少しだけ」
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半助が、黙った。
しばらくして、泣き声が聞こえた。
小さな、押し殺した泣き声。
澪は、何も言わなかった。
お福も、何も言わなかった。
三人で、暗闇の中にいた。
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ある日。
ヘンドリックが、澪を呼んだ。
「お前に、教えることがある」
「何ですか」
「オランダ語だ」
澪が目を上げた。
「お前は覚えが早い。使える人間になれ」
(使える人間)
その言葉は、冷たかった。
でも、澪は答えた。
「はい」
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── 語り ──
出島は、確かに檻だった。
門の外には出られなかった。
日本人と自由に話せなかった。
どこへ行くかも、自分では決められなかった。
だが。
澪はその檻の中で、言葉を学んだ。
オランダ語を。
異国の習慣を。
世界が日本の外にあることを。
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── 回想、終わり ──
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波が、澪を叩いた。
柱を掴む手が、痺れていた。
雨が、目を塞いだ。
「半助!」
返事がなかった。
「お福!!」
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船が、大きく傾いた。
ギシ、と音がした。
次の瞬間——
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ドン、という衝撃。
岩礁だった。
船底が、割れる音がした。
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「座礁だ——!」
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澪の体が、海に投げ出された。
冷たかった。
暗かった。
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(母ちゃん)
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(ちゃんと、生きるけん)
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── 語り ──
澪は、波に飲まれた。
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どのくらい、経ったか。
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砂の感触がした。
波の音が、遠かった。
空が、白かった。
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(生きてる)
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体を起こそうとした。
動かなかった。
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「……生きてるか」
声がした。
日本語だった。
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澪は、目を開けた。
男が、立っていた。
日焼けした顔。
白い髪の端。
穏やかな目。
日本人、だった。
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「ここは」
澪が、かすれた声で言った。
男が、遠くを見た。
「シャムの近くの島だ」
「……シャム」
「遠いところまで、流れてきたな」
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男が、手を差し伸べた。
「歩けるか」
澪は、その手を掴んだ。
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── 語り ──
この男が。
澪の、次の運命を変える。
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男の名前は——
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「山田仁三郎だ」
「よろしくな」
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第二話「出島の檻」了
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