表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
100/113

【第一部「漂流」】第一話:「売られた朝」

手を、離された。

────────────────────

出島の門の前だった。

霧が、長崎の港を包んでいた。

男が、金を数えていた。

父だった。

もう一人の男が、澪の腕を掴んだ。

大きな手だった。

赤い髪だった。

青い目が、澪を見下ろしていた。

────────────────────

澪は、父を見た。

父は、澪を見なかった。

────────────────────

── 語り ──

天保十四年(一八四三年)。

長崎・出島。

七歳の少女が、売られた朝。

────────────────────

── 語り ──

少し前のことを、話さなければならない。

────────────────────

肥後の山の中に、小さな村があった。

田んぼが少なかった。

雨が少なかった。

食べ物が、少なかった。

澪の家は、その中でも特に貧しかった。

父は働いた。

母も働いた。

澪も、歩けるようになった日から働いた。

それでも、足りなかった。

────────────────────

「澪」

ある夜、母が呼んだ。

「明日、父ちゃんと長崎に行くんよ」

「長崎?」

母が、澪の髪を撫でた。

いつもより、長く。

「お前は、賢い子だから」

「うん」

「どこに行っても、生きていける」

────────────────────

澪は、その夜、眠れなかった。

(どこに行くんだろう)

でも、聞けなかった。

母の目が、赤かったから。

────────────────────

翌朝。

父と二人で、山を下りた。

母は、門のところまで来た。

そこから先は、来なかった。

────────────────────

「母ちゃん」

澪が振り返った。

母が、笑っていた。

泣きながら、笑っていた。

「行きんしゃい」

────────────────────

── 語り ──

それが。

母の顔を見た、最後だった。

────────────────────

出島の門の前。

赤い髪の男が、澪の腕を引いた。

澪は振り返った。

父の背中が、霧の中に消えていった。

小さくなっていった。

止まらなかった。

────────────────────

(父ちゃん)

────────────────────

門が、閉まった。

────────────────────

── 語り ──

出島は、海の上に浮かぶ小さな島だった。

日本でありながら、日本ではない場所。

異国の言葉が飛び交い。

異国の匂いがして。

異国の男たちが歩いていた。

────────────────────

赤い髪の男——ヘンドリックと呼ばれていた——は、澪を建物の中に連れて行った。

部屋の隅に、子どもが二人いた。

一人は男の子。

一人は女の子。

どちらも、澪と同じくらいの年だった。

どちらも、澪と同じ目をしていた。

────────────────────

(同じだ)

(売られてきたんだ)

────────────────────

女の子が、小声で言った。

「どこから来たん」

「肥後」

「そうか。うちは薩摩」

「……名前は」

「お福。あんたは」

「澪」

お福が、うなずいた。

「ここは、どこへ行く前の場所かな」

澪は、答えられなかった。

────────────────────

数日が過ぎた。

ヘンドリックは、澪たちに仕事を教えた。

食器を洗うこと。

床を拭くこと。

荷物を運ぶこと。

怒鳴ることは、なかった。

殴ることも、なかった。

だが。

笑うことも、なかった。

────────────────────

ある朝。

澪は、窓から海を見た。

生まれて初めて見る、本物の海だった。

果てしなく、広かった。

(あの向こうに、何がある)

────────────────────

「乗るぞ」

ヘンドリックが、言った。

「どこへ」

澪が、オランダ語で聞いた。

ヘンドリックが、初めて澪を真っ直ぐに見た。

「……オランダ語を知っているのか」

「少しだけ」

村の寺子屋の和尚が、なぜか教えてくれた言葉だった。

ヘンドリックが、何か考えるような顔をした。

「お前は、賢いかもしれん」

────────────────────

── 語り ──

天保十四年。秋。

澪を乗せた船が、長崎港を出た。

────────────────────

甲板に出ると、風が強かった。

日本の山が、遠くなっていった。

小さくなっていった。

消えていった。

────────────────────

(母ちゃん)

(ちゃんと、生きるけん)

────────────────────

澪は、海を見た。

どこまでも続く、青い海を。

────────────────────

そのとき。

空が、暗くなった。

────────────────────

「嵐だ!」

船員が、叫んだ。

────────────────────

── 語り ──

それは。

別の始まりだった。

────────────────────

第一話「売られた朝」了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ