【第一部「漂流」】第一話:「売られた朝」
手を、離された。
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出島の門の前だった。
霧が、長崎の港を包んでいた。
男が、金を数えていた。
父だった。
もう一人の男が、澪の腕を掴んだ。
大きな手だった。
赤い髪だった。
青い目が、澪を見下ろしていた。
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澪は、父を見た。
父は、澪を見なかった。
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── 語り ──
天保十四年(一八四三年)。
長崎・出島。
七歳の少女が、売られた朝。
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── 語り ──
少し前のことを、話さなければならない。
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肥後の山の中に、小さな村があった。
田んぼが少なかった。
雨が少なかった。
食べ物が、少なかった。
澪の家は、その中でも特に貧しかった。
父は働いた。
母も働いた。
澪も、歩けるようになった日から働いた。
それでも、足りなかった。
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「澪」
ある夜、母が呼んだ。
「明日、父ちゃんと長崎に行くんよ」
「長崎?」
母が、澪の髪を撫でた。
いつもより、長く。
「お前は、賢い子だから」
「うん」
「どこに行っても、生きていける」
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澪は、その夜、眠れなかった。
(どこに行くんだろう)
でも、聞けなかった。
母の目が、赤かったから。
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翌朝。
父と二人で、山を下りた。
母は、門のところまで来た。
そこから先は、来なかった。
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「母ちゃん」
澪が振り返った。
母が、笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
「行きんしゃい」
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── 語り ──
それが。
母の顔を見た、最後だった。
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出島の門の前。
赤い髪の男が、澪の腕を引いた。
澪は振り返った。
父の背中が、霧の中に消えていった。
小さくなっていった。
止まらなかった。
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(父ちゃん)
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門が、閉まった。
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── 語り ──
出島は、海の上に浮かぶ小さな島だった。
日本でありながら、日本ではない場所。
異国の言葉が飛び交い。
異国の匂いがして。
異国の男たちが歩いていた。
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赤い髪の男——ヘンドリックと呼ばれていた——は、澪を建物の中に連れて行った。
部屋の隅に、子どもが二人いた。
一人は男の子。
一人は女の子。
どちらも、澪と同じくらいの年だった。
どちらも、澪と同じ目をしていた。
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(同じだ)
(売られてきたんだ)
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女の子が、小声で言った。
「どこから来たん」
「肥後」
「そうか。うちは薩摩」
「……名前は」
「お福。あんたは」
「澪」
お福が、うなずいた。
「ここは、どこへ行く前の場所かな」
澪は、答えられなかった。
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数日が過ぎた。
ヘンドリックは、澪たちに仕事を教えた。
食器を洗うこと。
床を拭くこと。
荷物を運ぶこと。
怒鳴ることは、なかった。
殴ることも、なかった。
だが。
笑うことも、なかった。
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ある朝。
澪は、窓から海を見た。
生まれて初めて見る、本物の海だった。
果てしなく、広かった。
(あの向こうに、何がある)
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「乗るぞ」
ヘンドリックが、言った。
「どこへ」
澪が、オランダ語で聞いた。
ヘンドリックが、初めて澪を真っ直ぐに見た。
「……オランダ語を知っているのか」
「少しだけ」
村の寺子屋の和尚が、なぜか教えてくれた言葉だった。
ヘンドリックが、何か考えるような顔をした。
「お前は、賢いかもしれん」
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── 語り ──
天保十四年。秋。
澪を乗せた船が、長崎港を出た。
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甲板に出ると、風が強かった。
日本の山が、遠くなっていった。
小さくなっていった。
消えていった。
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(母ちゃん)
(ちゃんと、生きるけん)
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澪は、海を見た。
どこまでも続く、青い海を。
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そのとき。
空が、暗くなった。
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「嵐だ!」
船員が、叫んだ。
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── 語り ──
それは。
別の始まりだった。
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第一話「売られた朝」了




