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第六場「見得」

時任が放った銀の針は、すぐ目の前まで迫っていた。


よけられない。


俺は目を閉じかけた。


その時、視界の端に深紅の布が見えた気がした。


引き伸ばされたトバリの声。


「――幕、下ろすよ」


光の壁が緞帳のようにゆっくりと下りる。その幕はオーロラのように広がり、ハクを含めて俺たちを包んだ。


銀の針と同じように、トバリの能力は人の動きよりも速く作動した。


「なるほど。あの夜、獅堂隊長の一撃を止めた壁ですね」


時任はトバリの壁を見て目を細める。


「こんなに完璧な盾を持っているにもかかわらず……あのあと、あなたたちは逃げるように去った。使える回数に制限があるのでは?」


俺たちは何も答えない。


「結構。壁が消えるまで、待ちましょう。時間は、たっぷりありますので」


時任はまた一歩も動かず、懐中時計を見ている。


微かな違和感。


ずっと文字盤の縁に立ったまま、針も外から投じるだけ。


あいつはなぜ、あの場所から一歩も動かない?


もし仮に、あいつ自身も自分の力に囚われてしまうのだとしたら?


時任は、縁の内側、文字盤には入れないのだ。


あいつ自身も文字盤に入った途端、動きが遅くなるに違いない。


だがそれが分かったところで、あいつの能力を消す方法が分からなければ意味がない。


遅かれ早かれ再び投じられる銀の針に、源爺も俺たちもやられる。


トバリの壁は消えかかっていた。


時任の目は、確実にそれを捉えていた。


時間がない。


このままでは、みんなやられる……


俺は、何も出来ないのか……


『俺は……この力で、みんなを守りたい』――音羽へ伝えた言葉。


その時の音羽の眩しい笑顔。


―――。


頭の芯にくぎを打ちこまれたような痛みが走る。ざわざわとしたノイズが、直接耳を叩く。


そして、辺りが一瞬、真っ白になった。


静寂。


頭の痛みも、ノイズも消えていた。


俺は時任を視界の端で捉える。


――解析する。


視界の端が冷える。瞳には、銀の輪が浮かび上がる。だがその輪は、二重になっていた。


【時間遅延】


その下にかすれた墨のような薄い文字がにじみ出す。


〈自身が定めた円の中の時を遅らせる。ただし、その力は懐中時計の蓋が開いている間のみ有効〉


鼻の奥が熱くなり、いつもより濃い血がゆっくり唇へ伝う。


初めてだった。この目が、能力名より先を見せたのは。


時任は、俺のその様子をじっと眺めていた。


あいつの能力を消す方法は分かった。だが、その鍵となる懐中時計は時任が握っている。


俺がそこまでたどり着くまでに時任は再び針を投じるだろう。


ただしそれは、わざわざ俺が時任の方へ出向く場合だ。


簡単な話だ。時任と同じように物を使えばいい。物は人よりも速い。そして文字盤を出れば、その速度を取り戻す。


俺は、足元に転がっていたものを、ゆっくりと拾い上げた。


右手には、文字盤から折れ落ちた、古い時計の針の欠片。錆びて、重く、大きい鉄の欠片。


そして左手には、光の壁に止められて足元に落ちていた、時任の針を一本。細く、銀色で、夜の闇に溶けてしまいそうなほど小さい。


その時、光の壁が完全に消えた。


俺は、右手の鉄の欠片を時任の顔をめがけて投じる。


俺の手から離れた欠片は、ゆっくりとだが確実に時任へ向かう。


時任は、にこやかに微笑む。


「物は人よりも速い。そして、文字盤を抜ければその速さは戻る。それにお気づきになったのは、立派ですよ。ですが」


時任は、半歩だけ横にずれる。


「私が、それを知らないとでも?こんなに遅いもの、どこへ飛んでくるか、目をつぶっていても分かります」


その通りだ。


あいつは知っている。


だからこそ、遅くて大きな鉄片に目を奪われる。


振りかぶった右腕の影で、俺は左手の指を弾いていた。


左手の指から放たれた針は地面すれすれを、懐中時計を握った手をめがけて滑っていく。


時任の目は、まだ鉄片を追っていた。


鉄片が文字盤を抜けた途端、時任の横を速度を上げて飛んでいく。


「やれやれ、期待外れだったようです」


時任は鼻で笑った。


その時、ぴっ、とかすかな音がした。


小さな針は、届いた。


針は、時任の手の甲へ刺さっていた。白い手袋が血で赤くにじむ。


その拍子に、時任はその手で握っていた懐中時計を手放した。


懐中時計が地面に落ちる。


ぱちん、という音がした。


蓋は、閉まっていた。


その瞬間、体が軽くなる。


誰もが一瞬を躊躇する中で、誰よりも早く動き出した白い影。ハクだ。


「三秒、借りるぜ」


ハクは、時任の足を掴み、懐中時計を拾い上げた。


掴んだ手の周りで、ノイズがはじける。だが、何も起きない。


「ハク、蓋だ!」


俺の言葉に、ハクがはっとする。


ハクが蓋を開けた途端、時任の動きが止まる。


いや、正確には、ゆっくりと動いていた。伸ばしかけた手は宙で止まり、切れ長の目がゆっくりと見開かれていく。その顔は、驚きで満ちている。


時任の周囲一メートル付近だけ、砂埃がゆっくりと止まったように舞っていた。


俺たちは源爺を助け出し、時任とは反対側の縁まで駆けた。


時任を振り返ると、赤くにじむ白い手袋を外していた。その速度はもう元に戻っている。


お互いが、文字盤を挟んで向かい合う。


沈黙を破って口を開いたのは、時任だった。


「その時計を、返していただけますか」

「……返さない」


俺は、ハクから受け取った懐中時計を握りしめる。これがなければ、少なくとも今夜は力を使えない。


「能力波を出さずに班長を退けた少年、ですか。獅堂隊長があれほどこだわるのも、少し分かる気がします」


時任は針の刺さった手を眺めながら、ふっと息を吐いた。


「今夜は、私の負けです。その時計がなければ私はただの人です。ただ、ひとつだけお教えしておきましょう」


時任は、ハクとトバリにちらりと目をやる。


「そちらのお二人が今夜使った力。その波は、すべて記録されています。捨て地の至るところに置かれた、あの黒い杭に。白い隊長のもとに、もう届いているでしょうね」


俺は息を呑んだ。市場の角で白い制服の隊員が設置していたのは、感知装置だったのだ。


「もっとも、私がここにいたことも、同じように記録されていますけれど。咎められるのは、あなたたちだけではありませんよ」

「では、失礼」


軽くお辞儀をすると、時任は夜の闇へ消えていった。


ハクが文字盤の上に大の字に倒れ込む。


「勝った?今の、勝ったよな?」

「勝ったよ。……たぶん」


トバリが源爺の肩を支えながら答える。源爺は足を痛めたようだ。


鼻の下をぬぐうと手の甲が赤い。頭の芯がまだ痛む。


初めて二等級を破った。


だが、払った代償は大きい。ハクとトバリの力はもう白日の下に晒されてしまった。


握りしめた懐中時計が、手の中で、チクタクと小さく時を刻んでいた。

お読みいただきましてありがとうございます。

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