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9/18

元婚約者殿下が、今さら会いに来ました

 結論から言うと、私は旧礼拝堂へ行かなかった。


 当然である。

 護衛もつけず、誰にも知らせず、夜に外で会え――そんな誘いに乗るほど、私は恋に酔っていないし馬鹿でもない。


 代わりに、私はその手紙をルシアン公爵へ見せた。

 すると彼は一読しただけで、氷のような顔のまま言った。


「行くな」

「行きません」

「……即答か」

「当たり前です」

「少しは迷わないのか」

「迷う理由がありません」


 ルシアン公爵はそこでなぜか少しだけ目を伏せた。

 安堵したようにも見えたが、気のせいかもしれない。


「ならばこちらで場を用意する」

「場」

「向こうが密会を望むなら、望み通りにはさせない。応接室で会え」

「それは密会ではなく面談ですね」

「それでいい」


 というわけで、翌日。

 レオンハルト第二王子は、北方領都庁舎の応接室へ正式に通された。


 扉が開いた瞬間、私は息を止めそうになる。

 懐かしさではない。見覚えのある笑顔に対する、反射的な警戒だった。


 蜂蜜色の髪、柔らかな微笑、整った容姿。

 王都にいた頃、誰もが「優しい殿下」と称えた顔だ。

 でも私は知っている。その笑顔の裏で、都合が悪くなればどれだけあっさり人を切り捨てるかを。


「久しぶりだね、セラフィーナ」

「お久しぶりでございます、レオンハルト殿下」

 私は立ったまま淑女礼をした。最低限の礼儀だけ。

 向こうもそれに気づいたのだろう。口元の笑みがほんのわずかに薄くなる。


「随分、よそよそしいじゃないか」

「元婚約者に対しては妥当かと」

「相変わらず手厳しいな。昔の君なら、もう少し柔らかかった」

「いいえ。昔もこれくらいでした。殿下が聞いていなかっただけです」


 部屋の空気がぴんと張る。

 けれど私は目を逸らさない。


「今日はどのようなご用件でしょう」

「ふたりで話したい」

「護衛を外すつもりはありません」

 すかさず言うと、殿下は肩をすくめた。

「そんなに警戒しなくても、私は君を傷つけに来たわけじゃない」

「過去に十分傷ついておりますので、今さら信用を求められても困ります」


 殿下の背後では、控えていたミラが拳をぎゅっと握っていた。

 気持ちはよく分かる。


 レオンハルト殿下は溜め息をつき、ようやく本題に入った。


「王都の財務処理に不自然な点が見つかった」

「そうですか」

「君の力が必要だ」

「お断りします」

「まだ何も言っていない」

「言う前に分かります」


 私は淡々と答えた。

「殿下は私の力が必要なのではなく、責任だけ押しつけられる便利な人間が必要なのです」

「セラフィーナ」

「しかも、正式な委任状も任命書もお持ちでない。極秘だから、という言い訳で無償協力を迫るおつもりでしょう?」

「無償とは言っていない」

「報酬より先に秘密保持を求めるお話は、たいてい碌なものではありません」


 殿下の眉がぴくりと動く。

 図星らしい。


「変わったな」

「変わりました」

「以前の君は、もっと私を支えようとしていた」

「以前の私は、婚約者でしたから」

「いまでも、君が有能であることは認めている」

「光栄です。でも今の私は、グレイフォード公爵夫人です」


 その言葉に、殿下の顔からようやく柔らかさが消えた。


「……その結婚、本当に望んでいたのか?」

「はい」

 即答すると、今度こそ彼は目を見開いた。

「愛もなく、北方へ売られるように嫁いだのに?」

「売られた覚えはありますが、職場環境は良好です」

「しょくば?」

「はい。労働条件が明確で、対価もきちんとしていて、責任の所在もはっきりしています」

「結婚の話をしているんだが」

「私もです」


 殿下は理解不能なものを見る顔をした。

 それもそうだろう。彼は私に、捨てられた女の未練が残っていると思っていたのだから。


「君は――」

「それ以上は、おやめください」

 低い声が割って入った。


 振り向かなくても分かる。

 ルシアン公爵だ。


 彼は応接室の奥から歩み出ると、私の斜め後ろに立った。

 庇うような位置だった。


「第二王子殿下」

「盗み聞きとは感心しないな、ルシアン公」

「公爵領庁舎内での会談だ。警備責任は私にある」

「相変わらず堅い男だ」

「貴殿が緩すぎるだけだろう」


 ひやりと冷えた応酬に、室内の空気が緊張で張り詰める。

 レオンハルト殿下は薄く笑った。


「私はただ、旧友に助力を求めただけだ」

「旧友?」

 思わず私が聞き返すと、殿下は少しだけ気まずそうにした。

「婚約者だっただろう」

「でした、ですね」

「今は違います。彼女は私の妻だ」

 ルシアン公爵がはっきり言い切る。


 胸の奥がどくりと鳴った。

 妻。もちろん事実なのだけれど、目の前で言い切られると妙に意識してしまう。


 レオンハルト殿下の笑みが消えた。

「君は事情を知らないだろうが、セラフィーナは王都の財務を支えていた」

「でしょうね」

「なら、国のために働くのは当然では?」

「当然ではない」

 ルシアン公爵の声は冷たい。

「王家が必要とするなら、正規の任命と権限、報酬を提示しろ。元婚約を盾に曖昧な義務を負わせるな」

「……ずいぶんと庇うじゃないか」

「庇っているのではない。正している」


 その一言に、私は少しだけ笑いそうになった。

 そう、この人は庇うというより、筋を通しているだけなのだ。

 だから信頼できる。


 レオンハルト殿下は私へ視線を戻した。

「本当に、戻る気はないんだな」

「ありません」

「私のそばにいたころの方が、君は役に立っていた」

「その言い方をなさるから、余計にありません」

「セシリアのことをまだ怒っているのか」

「怒っていません」

「ではなぜ」

「殿下は、私を人として扱わなかったからです」


 沈黙が落ちた。


 私は静かに続ける。

「道具として便利だと思っていた。それはもう十分に伝わっています。ですので、今さら『必要だ』と言われても心は動きません」

「……」

「必要なら、相応の手続きを踏んでください。私は曖昧なお願いでは動きません」


 レオンハルト殿下はしばらく私を見ていたが、やがて苦く笑った。

「冷たいな」

「お互い様です」


 会談はそれで終わった。

 殿下は最後にルシアン公爵へ一礼し、去り際に私へだけ小さく言う。


「君は、昔よりずっと手に負えなくなった」

「光栄です」


 扉が閉まったあと、私はようやく詰めていた息を吐き出した。

 ミラが「よく言いました!」と小声で拳を振る。

 ルシアン公爵は私の横顔をしばらく見ていた。


「大丈夫か」

「はい」

「無理はしていないか」

「していません」

「そうか」


 それだけ言って終わるのかと思ったら、彼は少し間を置いてから続けた。


「彼の『役に立つ』という言い方を、君は嫌うのだな」

「はい」

「なぜだ」

「……役に立つこと自体は嫌いではありません」

 私は正直に答える。

「でも、役に立たなければ価値がないと思われるのは嫌です」

「……」


 ルシアン公爵は何も言わなかった。

 ただその沈黙は、無関心ではなかった。


「戻って仕事をします」

 私は話を切り上げようとして立ち上がる。

 すると、不意に彼の手が私の袖口に触れた。

 驚いて振り向くと、ほんの一瞬だけ触れた指先はすぐ離れる。


「今日はもう終わりにしろ」

「ですが」

「命令だ」

「横暴です」

「契約相手を休ませるのも責任者の仕事だろう」


 そう言われてしまうと弱い。

 私は唇を尖らせつつも、結局その日は早めに仕事を切り上げることになった。


 ただ、部屋へ戻る廊下の途中でふと気づく。

 さっきルシアン公爵が袖口に触れたとき、彼の手は驚くほど冷たかった。


 あの会談で、冷静に見えていた彼もまた、少しは怒っていたのかもしれない。

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