元婚約者殿下が、今さら会いに来ました
結論から言うと、私は旧礼拝堂へ行かなかった。
当然である。
護衛もつけず、誰にも知らせず、夜に外で会え――そんな誘いに乗るほど、私は恋に酔っていないし馬鹿でもない。
代わりに、私はその手紙をルシアン公爵へ見せた。
すると彼は一読しただけで、氷のような顔のまま言った。
「行くな」
「行きません」
「……即答か」
「当たり前です」
「少しは迷わないのか」
「迷う理由がありません」
ルシアン公爵はそこでなぜか少しだけ目を伏せた。
安堵したようにも見えたが、気のせいかもしれない。
「ならばこちらで場を用意する」
「場」
「向こうが密会を望むなら、望み通りにはさせない。応接室で会え」
「それは密会ではなく面談ですね」
「それでいい」
というわけで、翌日。
レオンハルト第二王子は、北方領都庁舎の応接室へ正式に通された。
扉が開いた瞬間、私は息を止めそうになる。
懐かしさではない。見覚えのある笑顔に対する、反射的な警戒だった。
蜂蜜色の髪、柔らかな微笑、整った容姿。
王都にいた頃、誰もが「優しい殿下」と称えた顔だ。
でも私は知っている。その笑顔の裏で、都合が悪くなればどれだけあっさり人を切り捨てるかを。
「久しぶりだね、セラフィーナ」
「お久しぶりでございます、レオンハルト殿下」
私は立ったまま淑女礼をした。最低限の礼儀だけ。
向こうもそれに気づいたのだろう。口元の笑みがほんのわずかに薄くなる。
「随分、よそよそしいじゃないか」
「元婚約者に対しては妥当かと」
「相変わらず手厳しいな。昔の君なら、もう少し柔らかかった」
「いいえ。昔もこれくらいでした。殿下が聞いていなかっただけです」
部屋の空気がぴんと張る。
けれど私は目を逸らさない。
「今日はどのようなご用件でしょう」
「ふたりで話したい」
「護衛を外すつもりはありません」
すかさず言うと、殿下は肩をすくめた。
「そんなに警戒しなくても、私は君を傷つけに来たわけじゃない」
「過去に十分傷ついておりますので、今さら信用を求められても困ります」
殿下の背後では、控えていたミラが拳をぎゅっと握っていた。
気持ちはよく分かる。
レオンハルト殿下は溜め息をつき、ようやく本題に入った。
「王都の財務処理に不自然な点が見つかった」
「そうですか」
「君の力が必要だ」
「お断りします」
「まだ何も言っていない」
「言う前に分かります」
私は淡々と答えた。
「殿下は私の力が必要なのではなく、責任だけ押しつけられる便利な人間が必要なのです」
「セラフィーナ」
「しかも、正式な委任状も任命書もお持ちでない。極秘だから、という言い訳で無償協力を迫るおつもりでしょう?」
「無償とは言っていない」
「報酬より先に秘密保持を求めるお話は、たいてい碌なものではありません」
殿下の眉がぴくりと動く。
図星らしい。
「変わったな」
「変わりました」
「以前の君は、もっと私を支えようとしていた」
「以前の私は、婚約者でしたから」
「いまでも、君が有能であることは認めている」
「光栄です。でも今の私は、グレイフォード公爵夫人です」
その言葉に、殿下の顔からようやく柔らかさが消えた。
「……その結婚、本当に望んでいたのか?」
「はい」
即答すると、今度こそ彼は目を見開いた。
「愛もなく、北方へ売られるように嫁いだのに?」
「売られた覚えはありますが、職場環境は良好です」
「しょくば?」
「はい。労働条件が明確で、対価もきちんとしていて、責任の所在もはっきりしています」
「結婚の話をしているんだが」
「私もです」
殿下は理解不能なものを見る顔をした。
それもそうだろう。彼は私に、捨てられた女の未練が残っていると思っていたのだから。
「君は――」
「それ以上は、おやめください」
低い声が割って入った。
振り向かなくても分かる。
ルシアン公爵だ。
彼は応接室の奥から歩み出ると、私の斜め後ろに立った。
庇うような位置だった。
「第二王子殿下」
「盗み聞きとは感心しないな、ルシアン公」
「公爵領庁舎内での会談だ。警備責任は私にある」
「相変わらず堅い男だ」
「貴殿が緩すぎるだけだろう」
ひやりと冷えた応酬に、室内の空気が緊張で張り詰める。
レオンハルト殿下は薄く笑った。
「私はただ、旧友に助力を求めただけだ」
「旧友?」
思わず私が聞き返すと、殿下は少しだけ気まずそうにした。
「婚約者だっただろう」
「でした、ですね」
「今は違います。彼女は私の妻だ」
ルシアン公爵がはっきり言い切る。
胸の奥がどくりと鳴った。
妻。もちろん事実なのだけれど、目の前で言い切られると妙に意識してしまう。
レオンハルト殿下の笑みが消えた。
「君は事情を知らないだろうが、セラフィーナは王都の財務を支えていた」
「でしょうね」
「なら、国のために働くのは当然では?」
「当然ではない」
ルシアン公爵の声は冷たい。
「王家が必要とするなら、正規の任命と権限、報酬を提示しろ。元婚約を盾に曖昧な義務を負わせるな」
「……ずいぶんと庇うじゃないか」
「庇っているのではない。正している」
その一言に、私は少しだけ笑いそうになった。
そう、この人は庇うというより、筋を通しているだけなのだ。
だから信頼できる。
レオンハルト殿下は私へ視線を戻した。
「本当に、戻る気はないんだな」
「ありません」
「私のそばにいたころの方が、君は役に立っていた」
「その言い方をなさるから、余計にありません」
「セシリアのことをまだ怒っているのか」
「怒っていません」
「ではなぜ」
「殿下は、私を人として扱わなかったからです」
沈黙が落ちた。
私は静かに続ける。
「道具として便利だと思っていた。それはもう十分に伝わっています。ですので、今さら『必要だ』と言われても心は動きません」
「……」
「必要なら、相応の手続きを踏んでください。私は曖昧なお願いでは動きません」
レオンハルト殿下はしばらく私を見ていたが、やがて苦く笑った。
「冷たいな」
「お互い様です」
会談はそれで終わった。
殿下は最後にルシアン公爵へ一礼し、去り際に私へだけ小さく言う。
「君は、昔よりずっと手に負えなくなった」
「光栄です」
扉が閉まったあと、私はようやく詰めていた息を吐き出した。
ミラが「よく言いました!」と小声で拳を振る。
ルシアン公爵は私の横顔をしばらく見ていた。
「大丈夫か」
「はい」
「無理はしていないか」
「していません」
「そうか」
それだけ言って終わるのかと思ったら、彼は少し間を置いてから続けた。
「彼の『役に立つ』という言い方を、君は嫌うのだな」
「はい」
「なぜだ」
「……役に立つこと自体は嫌いではありません」
私は正直に答える。
「でも、役に立たなければ価値がないと思われるのは嫌です」
「……」
ルシアン公爵は何も言わなかった。
ただその沈黙は、無関心ではなかった。
「戻って仕事をします」
私は話を切り上げようとして立ち上がる。
すると、不意に彼の手が私の袖口に触れた。
驚いて振り向くと、ほんの一瞬だけ触れた指先はすぐ離れる。
「今日はもう終わりにしろ」
「ですが」
「命令だ」
「横暴です」
「契約相手を休ませるのも責任者の仕事だろう」
そう言われてしまうと弱い。
私は唇を尖らせつつも、結局その日は早めに仕事を切り上げることになった。
ただ、部屋へ戻る廊下の途中でふと気づく。
さっきルシアン公爵が袖口に触れたとき、彼の手は驚くほど冷たかった。
あの会談で、冷静に見えていた彼もまた、少しは怒っていたのかもしれない。




