北方公爵領は、帳簿より現場が荒れている
王都を発って五日。
私たちを乗せた馬車が北方領都ノクスヘイムへ入ったとき、最初に感じたのは空の低さだった。
雲が近い。
風が鋭い。
そして寒い。
「寒いですね」
「当たり前だ」
向かいに座るルシアン公爵が、呆れたように言った。
「北方だぞ」
「知識として知っている寒さと、実際の寒さは違うんです」
「なら毛布をもう一枚使え」
「使っています」
「なら寄れ」
「……はい?」
思わず顔を上げると、公爵はすでに窓側の毛皮をこちらへ寄せていた。
自分の肩に掛けていた厚手の外套まで外して、当然のように私の膝へ置く。
「冷えて体調を崩される方が困る」
「そうですけど」
「契約の三条を忘れたか」
「公爵様も無理をしない、でしたね」
「そうだ」
契約を盾にされると弱い。
私は大人しく外套を受け取り、ふわりと香る冷たい革の匂いに少しだけ落ち着かなくなった。
北方への道中、公爵は驚くほど実務的で、そして意外なくらい気を配る人だと分かった。
休憩のたびに馬の状態を確認し、護衛の食事時間まで把握している。私とミラの乗る車輪の具合も毎日見ていた。
ただ、その気遣いの言葉が全部無骨なだけで。
『転ぶな』
『手を貸す』
『それは重い。持て』
……うん、優しさが分かりにくい。
ノクスヘイムの城壁が見えたころ、先触れを受けていた領都の官吏たちが整列して出迎えた。
領政長官のマティアス、財務官のフェルナー、兵站責任者のハンナ、古参書記官のヨナス。
名前を聞いた瞬間、私は少しだけ目を細める。
――兵站責任者が女性?
珍しい。
けれどハンナという名の女性は、四十代半ばほどのきりっとした顔立ちで、軍用外套を着こなしていた。片手に帳面を抱える姿は実に頼もしい。
対して財務官フェルナーは、細身で愛想のよい中年男。笑顔は柔らかいが、目の奥が笑っていない。
「奥様をお迎えでき、領都一同、光栄に存じます」
フェルナーがやけに滑らかに頭を下げた。
「急なご来領で準備が十分ではございませんが」
「お気遣いなく」
私は微笑みを返す。
「こちらも急な監査ですので」
「……監査、ですか」
「はい。帳簿と現場、両方拝見します」
その瞬間、フェルナーの口元がほんのわずかに引きつったのを、私は見逃さなかった。
到着後すぐに領都庁舎へ入ると、私はまず穀倉の在庫表を要求した。
応接室でお茶を、などという言葉には耳も貸さない。
ミラが「奥様、ものすごくやる気ですね」と小声で言ったけれど、やる気もなにも食糧問題である。急がない理由がない。
運ばれてきた在庫表は、一見きれいだった。
けれど指先を滑らせた瞬間、赤い綻びがいくつも走る。
「……予想以上ですね」
私は小さく呟いた。
「どうだ」
ルシアン公爵が隣から問う。
「公爵邸よりひどいです」
「何」
「形式だけ整えて、現物を合わせていない。しかも複数年分」
私は立ち上がった。
「穀倉へ行きましょう」
領政長官マティアスが慌てる。
「い、今からですか?」
「はい」
「今日はご到着の日で――」
「だからです。翌日になれば隠されます」
ルシアン公爵が短く言った。
「行くぞ」
穀倉は領都の西側、兵舎に隣接した石造りの建物群だった。
扉が開かれると、乾いた穀物の匂いが漂う。
外から見れば十分な量がありそうに見えた。けれど私は積み上げられた袋の列を見た瞬間、嫌な確信を得る。
「数が合っていませんね」
「見ただけで分かるのか?」
ハンナが初めて口を開いた。低く落ち着いた声だった。
「積み方が妙です。見せかけの列を前に出して、奥を空けている」
「……その通りです」
ハンナは眉ひとつ動かさず頷いた。
「私も足りないと思っていた」
私は彼女を振り返る。
「報告は?」
「何度も上げました。輸送途中の損耗が大きい、盗賊被害だ、と財務官から返されるだけでした」
「現場と帳簿の突合は」
「止められました」
それを聞いたルシアン公爵の気配が一段冷えた。
フェルナー財務官の顔色が変わる。
「お待ちください、旦那様。冬前はどうしても数字が」
「数字が何だ」
「一時的な揺れでして」
「一時的なら、現物確認を拒んだ理由を言え」
詰め寄られたフェルナーは口ごもった。
私は積まれた穀袋の口をひとつ開き、掌に少量を受ける。
粒は悪くない。つまり品質の問題ではなく、純粋に量の問題だ。
「ハンナ兵站責任者。足りない分はどれくらい」
「このまま厳冬期に入れば、一月半分」
「……最悪だ」
前世なら、物流計画の失敗で済まない。
この世界の冬は命取りだ。
私は倉内を見回した。
兵站責任者ハンナの表情は悔しさを押し殺している。古参書記官ヨナスは疲れ切った顔。領政長官マティアスは板挟みで胃が痛そう。
そしてフェルナーだけが、汗を浮かべながらもどこか逃げ道を探している。
「まずは封鎖です」
私はきっぱり言った。
「穀倉、輸送記録室、財務保管庫。今日から私と公爵様の許可なしに開けないでください」
「しかし」
「しかしではありません。人が死にます」
ハンナが即座に拳を胸に当てた。
「兵站部、従います」
ヨナスも深く頭を下げる。
「書記局も」
マティアスは一拍遅れて頷いた。
フェルナーだけが反応しない。
私は彼をまっすぐ見た。
「財務官殿。あなたもです」
「……承知いたしました」
その日の夕方、私は領都庁舎の一室を臨時監理室にしてもらい、山のように積まれた輸送記録に向かった。
ミラが机を整え、ヨナスが古い帳簿を運び、ハンナが現場の報告を置いていく。
ようやく、仕事のできる空気が生まれつつある。
「奥様」
茶を運びながらミラが囁いた。
「みんな、味方になってくれそうですね」
「現場で困っていた人ほど、正しい手順を求めるものよ」
「敵は」
「財務官フェルナー。それと、その後ろ」
そう言って次の帳簿を開いた瞬間、私は目を止めた。
輸送契約の相手先一覧。その中に、見覚えのある名前がある。
ローデン商会。
王都で出てきたあの商会だ。
さらにその隣、特記事項に添えられた小さな印。
王都貴族向け優先便。
「……つながった」
「奥様?」
「ミラ、公爵様を呼んで」
私の声に、ミラが即座に走り出す。
帳簿の上では、赤い綻びが蜘蛛の巣のように広がっていた。
北の穀物は、王都へ流されている。
しかも偶発的ではない。最初からそのつもりで契約が組まれている。
この領地、帳簿より現場が荒れているどころではない。
土台から食い荒らされている。




