眠れない公爵と静かな書庫
その夜、私は公爵様との約束通り――正確には私が一方的に押し切った通り――三十分で作業を切り上げた。
切り上げたのだけれど、寝室に戻ってから妙に目が冴えてしまった。
新しい案件を前にした監査人が簡単に眠れるはずもない。前世の悪癖である。
結局、日付が変わる少し前、私はもう一度だけ書庫へ向かった。
ほんの十分、気になる書類を確認したら戻ろう。そう思って。
書庫には私の机だけがランプで照らされ、壁際の棚は暗がりに沈んでいる。
私は昼間見つけた古い人事記録を開いた。
倉庫係、荷車番、会計見習い。数年前から突然辞めた者、事故死したことになっている者、辺境へ異動したまま記録が消えた者。
不自然なほど多い。
「やっぱり、口を閉ざさせてる……」
ページをめくったそのとき、背後でごとりと鈍い音がした。
振り向くと、書棚の影のあたりで、長身の誰かが片手を壁についている。
銀髪。夜色の瞳。ルシアン公爵だった。
「公爵様!」
慌てて立ち上がると、彼は片手を上げて制した。
「騒ぐな。大したことではない」
「大したことあります」
「少し立ち眩みがしただけだ」
「それを大したことと言います」
私は机を回り込み、公爵のそばへ急いだ。
近くで見ると、顔色がひどい。額にはうっすら汗。呼吸も浅い。
「頭痛ですか」
「……いつものことだ」
「耳鳴りも?」
「ある」
「熱は」
「ない」
「たぶんあります」
「勝手に決めるな」
「では触りますよ」
「待て」
待てと言われたのに、私は待たなかった。
甲に触れた額は、案の定少し熱い。
ルシアン公爵が目を閉じ、小さく息を吐く。
怒るかと思ったのに、その気配はなかった。
「今日はひどい日なのですか?」
「拘束した者どもが、別室で互いに責任をなすりつけ合っている。証言のたび、誓約が裂ける音がする」
「……なるほど」
「書庫に来れば少しマシになると思った」
私は一瞬、言葉を失った。
ひどい理由なのに、その中に妙な信頼が混じっている。
少しマシになると思ったから、ここへ来た。私のいる書庫へ。
「座ってください」
「すぐ戻る」
「戻りません」
「セラフィーナ」
「座ってください、公爵様」
たぶん私は今、かなり強い声を出していた。
けれどルシアン公爵は意外にも逆らわず、私の椅子ではなく近くの長椅子に腰を下ろした。
私は予備のクッションを背に差し込み、ミラが置いていった保温瓶から茶を注ぐ。
「薬は?」
「効き目が薄い」
「寝ていないのでは?」
「……三日ほど」
「三日!?」
さすがに大声が出た。
公爵様が少しだけ眉を寄せる。
「静かにしろ」
「できません。三日って、正気ですか」
「正気でなければ騎士団は動かせん」
「そういう問題では」
「君は本当に容赦がないな」
「寝不足にだけはありません」
私は机に広げていた契約書を抱え、長椅子の前の低卓へ移した。
そして彼の前に座り込む。
「少し試します」
「何を」
「綻びの強い契約を分けて、順に整理します。公爵様は黙って茶を飲んでください」
「命令口調だな」
「いま私は健康管理責任者です」
任命された覚えはない、と言われるかと思った。
けれど彼はなにも言わず、渡した茶杯を受け取った。
私は深呼吸し、古い雇用契約から順に机へ並べていく。
余白視で綻びを確認し、破損した条項、重複する命令、無効になった契約を切り分ける。
完全な修復は公印と当事者の再署名が必要だが、どこが裂けているかを明確にするだけでも、紙のざらついた嫌な気配が少し薄まる。
十枚、二十枚。
ランプの火が静かに揺れる。
書庫には紙をめくる音しかない。
やがて、茶杯が卓へ戻される微かな音がした。
顔を上げると、ルシアン公爵は長椅子の背にもたれたまま目を閉じている。
「……公爵様?」
返事がない。
寝ているのだ。
私は思わず動きを止めた。
こんなにも無防備な彼を見るのは初めてだった。
いつも張り詰めた眉間の皺がゆるみ、長い睫毛が影を落とし、呼吸は深く穏やかだ。
目の下の隈は相変わらず濃いけれど、それでも先ほどよりずっと安らいでいる。
本当に、眠れたのだ。
私は胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。
役に立てた、という素朴な喜びと、この人がやっと少し休めているという安堵と。
たぶんその両方だ。
音を立てないように立ち上がり、近くの薄い毛布をそっと彼の肩へかける。
その拍子に、彼の睫毛がかすかに震えた。
「……セラフィーナ」
眠ったまま、名前を呼ばれた。
心臓が不意に大きく跳ねる。
「はい」
小さく答えたけれど、彼はもう聞いていない。
私は苦笑して、机へ戻った。
このまま朝までここで寝かせるべきか、誰かを呼ぶべきか。
少し迷ったものの、結局私は誰も呼ばなかった。
大勢に見つかれば騒ぎになるし、なにより本人が嫌がるだろう。
だから私は、長椅子の向かいで静かに書類を整理し続けた。
眠る夫を起こさないよう、紙の端を揃え、付箋を貼り、簡易目録を書きつける。
奇妙な夜だった。
白い結婚の相手が、同じ部屋で眠っている。
しかも理由は愛でも欲でもなく、破られた契約を少しずつ正しているから。
でも、悪くない。
むしろ私たちらしい気がした。
明け方近く、ルシアン公爵はふと目を開けた。
数秒、どこにいるのか分からない顔をして、それから身じろぎ一つで起き上がる。
「……私は」
「三時間ほど眠りました」
「三時間?」
「はい。おめでとうございます」
「祝い方がおかしい」
「快挙ですので」
彼は毛布を見、私の机に積まれた整理済みの書類を見、それから自分の茶杯が空なのを見た。
最後に、私へ視線が戻る。
「君が、ここにいたのか」
「はい。仕事をしていました」
「人を呼ばなかったのか」
「起こしたくなかったので」
「……そうか」
また短い沈黙が落ちる。
でも昨夜と違って、これは気まずい沈黙ではなかった。
「セラフィーナ」
「はい」
「礼を言う」
「どういたしまして」
「それで終わるのか」
「礼には礼で返すものです」
彼は少しだけ唇の端を上げた。
そして立ち上がると、私の机の上にある整理済みの束へ手を伸ばす。
「今日から、夜の書庫立ち入りを君に許可する」
「許可されなくても入るつもりでしたが」
「だろうな」
「でもありがとうございます」
「ただし条件がある」
「なんでしょう」
「君一人では無理をする。夜に作業するときは、必ず誰かをつけろ」
「ミラを?」
「ああ。私でもいい」
「……公爵様でも?」
「静かにするならな」
一瞬、言葉に詰まった。
それはつまり、彼もまたこの書庫を必要としているということだ。
私の整理する紙と、私のいる静けさを。
「分かりました」
私は頷く。
「では、夜勤体制を整えましょう」
「夜勤」
「労務管理は大事です」
「君と話していると、結婚しているのか雇用されているのか分からなくなる」
「両方、でいいのでは?」
「……そうかもしれんな」
その朝、ルシアン公爵はいつもより少しだけ軽い足取りで書庫を出ていった。
私はその背中を見送りながら、まだ温かい長椅子に目をやる。
白い結婚。
契約上はそれで間違っていない。
でもこの家で、私はただ飾られているだけの妻では終わらないだろう。
たぶん彼も、ただ冷たいだけの夫ではいられない。
そんな予感が、静かな書庫の朝に、薄く差し込んでいた。
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