私の魔法は、契約の誤字を見つけます
グレシャム家令たちが拘束されたその夜、私は書庫で追加の資料を整理していた。
倉庫から押収した納品書だけでも相当な量だ。
しかも改竄の手口が雑ではない。表面上は辻褄が合うように何段階も書類が噛ませてある。
これを組んだ人間は、会計と契約の流れをよく知っている。
「……奥様、もう休まなくて大丈夫ですか?」
ミラが湯気の立つ茶を置きながら、不安そうに眉を下げる。
「昼からずっと働いてます」
「ちゃんと休憩も取ったわ」
「取ったうちに入りません。三分しかありませんでした」
「監視が厳しいわね」
「監視役を自分で採用したのは奥様です」
まったくその通りだった。
ミラが淹れてくれた茶を口にすると、緊張していた肩が少しだけ緩む。
そこへ、ノックのあとにルシアン公爵が入ってきた。
「起きていたか」
「公爵様こそ」
「尋問が終わった」
彼は向かいの椅子に腰を下ろした。
昼間の冷えた怒気はもう薄い。代わりに疲労が色濃く浮いている。
「グレシャムは、購買係と会計補助に責任を押しつけようとしていた。だが証言が食い違う」
「当然です。三人とも、もっと上を庇っているので」
「やはりそう思うか」
「はい」
私は机上の紙束を引き寄せ、三種類の書類を並べた。
納品契約書、支払い承認書、輸送確認票。
「見てください。この三つ、筆跡も担当者も違うように見えますが、改竄の癖が同じです」
「癖?」
「数字の端を少しだけ引き延ばして別の数に見せるとき、最後に右上へ撥ねる人がいるんです。それと修正インクの配合。青が強い」
「そこまで分かるものか」
「分かります」
私は少し笑った。
「だって私の魔法は、契約の誤字を見つけるためにあるのですから」
実家で、王宮で、何度言っても笑われてきたことを、今は自然に口にできる。
それが妙に嬉しかった。
「余白視、と言ったか」
「ええ。文字の意味そのものより、そこに込められた意志の境目が見えます。たとえば故意に抜いた一行、後から足した条項、守られなかった約束。人が『なかったこと』にしたいものほど、余白は濁るんです」
「便利だな」
ルシアン公爵は素直にそう言った。
私はその一言に少しだけ目を丸くする。
「……褒めています?」
「褒めている」
「ありがとうございます」
「だが同時に、敵に回したくない能力でもある」
「こちらも、敵に回したくない相手には回りません」
公爵はわずかに頷き、ふと机上の一枚を手に取った。
それは、私が整理途中だった古い契約書だ。
二十年以上前、グレイフォード公爵領と王都のローデン商会が結んだ木材供給契約。
「これがどうかしたか」
「その契約、最初の条項がすでにおかしいんです」
「最初から?」
「ええ。本来は『北方防衛に関わる資材は、優先的に公爵領へ納める』となっていたはずの文言が、途中で『王都向けの緊急案件を優先できる』に書き換えられている。たった一文ですけど、これで資材がいくらでも横流しできます」
「誰がこんな」
「署名者は先代の財務官と、当時の商会主。けれど余白の色から見ると、改変そのものはもっと後です。おそらく十年以内」
「つまり最近の誰かが、古い契約に手を入れた」
「はい。それも、公爵家の書庫に保管された正本へ」
ルシアン公爵の指先が、紙の縁で止まる。
「内部の人間が必要だな」
「内部の、それなりに立場のある人間です」
そこまで言って、私は一つの違和感に気づいた。
公爵の顔色が、さっきより少しだけいい。
呼吸も安定している。
「公爵様」
「何だ」
「頭痛は?」
「……弱い」
「書庫に入ってから?」
「ああ」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「ここで綻びた契約を見つけて、整理しているだけでも影響があるみたいです。おそらく、公爵様の加護は『破綻を放置している状態』で一番負担が増える」
「修復中なら軽くなると?」
「仮説です。でも、私はそう見ています」
すると彼は、珍しく考え込むように視線を落とした。
「もし本当にそうなら、私は今まで随分遠回りをしていたことになるな」
「人手不足だったのでしょう?」
「それもある。だが……信用できる者に任せるという発想が、そもそも薄かった」
その言葉に、私は手を止めた。
この人はきっと長い間、自分ひとりで耐えてきたのだ。
戦場でも政務でも、倒れないことだけを求められて。
「公爵様」
「何だ」
「それは美徳ではありますけど、組織運営としては最悪です」
「容赦がないな」
「ありますよ。だから机を挟んで言っています」
「容赦があるのか、それで」
「かなりあります」
ふ、と今度こそ彼が小さく笑った。
本当にわずかだ。でも今度は見間違いじゃない。
そこで、書庫の外から控えめなノックが響く。
ミラが扉を開けると、アルフレッド執事長が入ってきた。
「旦那様、奥様。拘束した三名の私室から追加資料が」
「ここへ」
運び込まれた箱の中には、書簡の束と、私印の押された小袋、それから古い人事記録があった。
私はその一番上に乗っていた封筒に、どきりとするような黒い綻びを見る。
「貸してください」
封を切ると、中から現れたのは数通の指示書だ。
差出人の署名はない。だが文面にはこうあった。
『北方分を王都へ先回しせよ。殿下の案件を優先すること』
『帳尻はグレシャムに合わせろ。公印の件は上で処理済み』
殿下。
思わず、私は奥歯を噛みしめた。
「王家の誰か、ですか」
アルフレッド執事長が青ざめる。
私は慎重に首を振った。
「断定はまだ。でも少なくとも、王都のかなり上とつながっている」
ルシアン公爵の瞳が冷たく沈んでいく。
「殿下、か」
「はい」
「続けろ」
「もちろんです」
ここで怯む理由はない。
むしろ、少しだけ腹が据わった。
王都の上層が関わっているなら、なおさら証拠を固めなければならない。
感情ではなく、文書と数字で追い詰める。
それが私の戦い方だ。
「公爵様」
「何だ」
「明日、会計室の旧保管庫を開けたいです」
「理由は」
「人事記録と照合します。解雇や事故死になった使用人の流れを追えば、消された証人が見つかるかもしれません」
「分かった。鍵は私が持っている」
「それと」
「まだあるのか」
「あります。今後、私が発見した不正に関しては、隠さないでください」
「……どういう意味だ」
「公爵様はきっと、屋敷の体面や私の立場を考えて一部を飲み込もうとするでしょう。でも、それは駄目です。飲み込んだ綻びは、いずれもっと大きく裂けます」
しばらく沈黙が落ちた。
やがてルシアン公爵は、静かに答える。
「了解した、セラフィーナ」
初めて、名前で呼ばれた。
それだけで胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
私はごまかすように紙へ視線を落とした。
「では、私も公爵様を隠しません」
「何を」
「顔色です。今日は昨日より少しマシです」
「……そうか」
「ええ。なので、今夜はあと三十分で終わりにして休みましょう」
「命令か」
「提案です」
「断る」
「却下します」
「君は」
「良い職場を作るのが目標なので」
ルシアン公爵は何か言い返しかけて、結局なにも言わなかった。
ただ机に肘をつき、こめかみを押さえたまま、ほんの少しだけ力を抜いた。
私はその横顔を見て、ふと思う。
この人は、誰かに休めと言われることに慣れていないのだ。
なら、慣れてもらうしかない。




