初日から横領の匂いがします
ルシアン公爵は私の言葉に即答しなかった。
代わりに書庫の扉を閉め、ミラに人払いを命じる。
小さな侍女が部屋を出ていったあと、彼は窓辺へ移動して外を一度だけ確認し、ようやくこちらを振り返った。
「君は何を知っている」
「まだ推測です。ただ、公爵様の不眠や頭痛と、この家の契約書類の綻びが連動している可能性があります」
「……なぜそう思う」
「昨夜、公爵様は私に書類の山を渡したあと、少しだけ顔色がよくなりました。今朝も、この書庫に入ってから眉間の皺が浅いです」
「観察が細かいな」
「職業病です」
職業、とまた言ってしまったけれど、もう気にしないことにした。
ルシアン公爵も今さら咎めない。
「加えて、この書庫の紙には古い誓約の残滓が多い。普通の家の帳簿とは違って、契約自体に魔力が強く染みついています」
「それが見えるのか」
「はい。特に破られた約束は色が濁ります」
私は机上の古い雇用契約を一枚取り上げた。
赤いひびの走る署名欄を指でなぞる。
「たとえば、この契約。三年前に倉庫係として雇われた使用人のものですが、『冬季備蓄の現物確認を毎月行う』という条項だけが黒く淀んでいます。一度も守られていないのだと思います」
「そんなことまで分かるのか」
「厳密には、守られなかった痕跡が見えるだけです。でも十分でしょう?」
ルシアン公爵は腕を組み、長く息を吐いた。
観念と警戒が半分ずつ混ざったような顔だ。
「……この家には、初代公爵以来続く加護がある」
低く落とされた声は、どこか乾いていた。
「北方を守るため、グレイフォード家は誓約竜アルグレイと盟約を結んだ。約定を守る限り、北の結界と軍の統率に力を貸される。だが逆に、家の名のもとに結ばれた誓約が破られ続ければ、当代の公爵に負荷が返る」
「つまり」
「私は、配下の契約違反と不正の反動を受ける」
思っていたより、ずっと悪質だった。
単なる精神的な責任感ではない。
文字通り、家と領地に積み上がった破綻のしわ寄せが、当主一人に降りかかる仕組みなのだ。
「だから不眠に?」
「日による。頭痛、耳鳴り、発熱、皮膚の痛み。ひどい日は一晩中、誰かが耳元で紙を裂き続けるような音がする」
「それは、かなり……」
「慣れた」
慣れた、と彼は言った。
まるで他人事のように。私はそこで少し腹が立った。
「慣れてはいけません」
思わず語気が強くなる。
「そんなの、職場で慢性化させていい状態じゃありません」
「また職場か」
「職場です。組織です。領地経営です。どれも人が生きている場所でしょう」
「……君は、本当に変わっている」
「褒め言葉として受け取ります」
彼の目が、ほんの少しだけ和らぐ。
きっと本人は無意識だろう。
「公爵様。家令グレシャムを今すぐ切るのは危険です」
「なぜだ」
「末端では終わらないからです。帳簿の綻びの広がり方からして、倉庫、会計、購買、外部商会がつながっている。いきなり動けば証拠を燃やされます」
「ではどうする」
「まず、私に正式な監査権限をください」
「正式な」
「ええ。『公爵夫人の気まぐれ』ではなく、『公爵代理として文書確認を命じられている』という形にしてください。現場に出す命令書も必要です」
「大胆だな」
「やるなら徹底的にやります」
ルシアン公爵はしばらく黙っていたが、やがて書庫の棚から一枚の白紙の命令書を抜き取った。
魔力を帯びた公爵印が端に押されている。
「口頭では足りないか」
「足りません。口頭指示は、あとで『言った』『言わない』になります」
「信頼という言葉を知らないのか」
「知っています。でも信頼と証跡は両立できます」
私は羽根ペンを差し出した。
公爵はわずかに口元を引き結び、それを受け取る。
さらさらと書かれていく文字は速く、無駄がない。
セラフィーナ・グレイフォードに対し、屋敷内における帳簿・契約文書・納品記録の閲覧と照合、ならびに関係者への聞き取りを許可する――。
最後に公爵印が重ねられ、銀光が一瞬はじけた。
私はそれを確認し、余白にひびがないのを見て頷く。
「完璧です」
「そうか」
「ついでに、私付きの補助員を二人ほど借りたいのですが」
「ついでに言うことではないだろう」
「仕事は人手です」
「候補は」
「ミラは確定です」
「侍女だぞ」
「優秀です。観察力があるし、足も速い」
「本人の同意は」
「いま取ります」
「……好きにしろ」
許可が出たところで、私はすぐ扉を開けてミラを呼び戻した。
状況を伝えると、彼女は「えっ、ええっ、わたしですか!?」と目を白黒させたものの、最後には拳を握って「頑張ります!」と請け負ってくれた。
さらにもう一人、古参の執事アルフレッドのもとへ向かう。
彼は病で表には出ていなかったが、話してみると背筋の伸びた立派な老紳士だった。
「家令グレシャムのことを、あなたはどう見ていましたか」
単刀直入に尋ねると、アルフレッド執事長は静かに目を伏せた。
「疑ってはおりました。ですが証拠が足りず、旦那様も北方の軍務でご不在が多かった。私は体を壊し、目が届かなくなった」
「悔しかったでしょうね」
「……はい」
「なら、一緒に取り返しましょう」
老執事はその瞬間、はじめて少しだけ微笑んだ。
「奥様は、不思議なお方だ」
「褒め言葉として受け取ります」
その日の午後、私は正式な命令書を持って使用人部屋、倉庫、会計室を順に回った。
案の定、反発は強い。
「急に来られても困りますな、奥様」
家令グレシャムは、整えられた口髭を指で撫でながら作り笑いを浮かべた。
「帳簿管理はこれまで通り、こちらで適切に」
「適切に?」
私は彼の差し出した台帳をぱらりとめくる。
「ではこの補修費二重計上も、適切な処理ですか?」
「……なに?」
「この頁とこの頁。日付は違うのに、木材使用量と職人の署名が同じです。しかも片方はインクを乾かしたあとで数字を足している」
「それは記載ミスでしょう」
「では、なぜ修正印がないのです?」
「っ、それは」
「それからこちら。石炭納入書の検収者欄、亡くなったはずの倉庫係の署名が使われています」
周囲の空気が一気に冷えた。
使用人たちがざわつく。
「死者の署名まで使うなんて、ずいぶん大胆ですね」
「言いがかりだ!」
「言いがかりかどうかは、倉庫を開ければ分かります」
私はルシアン公爵の命令書を広げた。
公爵印が銀に光る。
「倉庫の封を解いてください、グレシャム家令。いますぐ」
彼の頬がぴくりと引きつった。
この反応だけで十分だ。
倉庫の扉が開かれると、積まれているはずの石炭袋は台帳よりずっと少なく、薬草箱の一部は空だった。
しかも、外から見えにくい奥の棚には、商会の印を削り落とした木箱が隠されていた。
ミラが息を呑む。
アルフレッド執事長は顔色を変えた。
そしてグレシャム家令は、ようやく作り笑いを崩した。
「これは、その……一時的な移送でして」
「どこへ?」
「それは」
「誰の指示で?」
「……」
言葉が続かない。
私は箱の側面に指を滑らせた。
削り落とされた印の下、黒い綻びが浮かび上がる。ローデン商会。王都の財務派閥とつながりの深い商会だ。
嫌な予感が、ひとつ形を持った。
「公爵様」
私は振り返った。
いつの間にか、ルシアン公爵が倉庫の入口に立っている。
彼は床に散る在庫表、青ざめる家令、そして私を順に見た。
「状況を」
「横領の一次証拠は確保しました。家令グレシャム、および購買係ダミアン、会計補助ベッカーの身柄拘束を提案します。ただし裏にまだいます」
「即時拘束する」
「口裏合わせを防ぐため、それぞれ別室に」
「分かった」
ルシアン公爵が短く命じると、護衛騎士たちが一斉に動いた。
グレシャム家令が抵抗しようとした瞬間、公爵の目が冷たく細められる。
「私の家で、私の領民の冬を盗んだな」
低い一言だった。
けれどその声には、倉庫中の空気を凍らせるほどの威圧があった。
家令は膝から崩れ落ちた。
――証拠は掴んだ。
でも、これは始まりにすぎない。
倉庫の奥から運び出された木箱を見つめながら、私は静かに息を吐く。
この不正の流れは、屋敷の内側だけでは閉じない。
たぶん、公爵領の外にまでつながっている。




