白い結婚は、社畜の私にはご褒美です
翌朝、私は人生で初めて「よく眠れた」と実感しながら目を覚ました。
ふかふかの羽毛布団。冷えすぎない室温。首を痛めない枕。
前世でホテルのベッドよりも会社の仮眠室の床に寝ていた私からすると、この時点でグレイフォード公爵家の福利厚生は満点である。
しかも、侍女が運んできた朝食は温かいスープと焼きたてのパン、半熟卵に果物までついていた。
王家からの急な縁談で送り込まれた、前婚約破棄つきの花嫁相手にこの待遇。
控えめに言って、破格だ。
「奥様、少しはお疲れが取れましたか?」
若い侍女が、おそるおそる尋ねてくる。
茶色の髪をきっちり結い上げた、小柄で目の大きな少女だ。昨夜、部屋まで案内してくれた子でもある。
「ええ、とても。あなたは」
「ミラと申します。今日から奥様付きの侍女を務めさせていただきます」
「よろしく、ミラ」
「……怒らないのですね」
「何を?」
「その、みなさん言うんです。公爵様は冷たいから、嫁いできた奥様はすぐ泣いて帰るだろうって」
「帰れませんけどね」
「そういうところが強いです、奥様……」
ミラがじわじわと目を丸くする。
たぶん私は強いのではなく、求めるものが普通の令嬢と違うだけだ。
窓を開けると、北の朝の空気がきりりと頬を撫でた。
王都の中心にある公爵邸だが、庭の木々にはまだ薄く霜が残っている。
「公爵様はもうお仕事ですか?」
「はい。朝から騎士団との会議だとか」
「働き者ですね」
「……奥様、本当に悲しくないのですか?」
「何が?」
「愛することはない、って言われたことです」
ミラはかなり言いにくそうに、それでも気になって仕方ないらしく訊いてきた。
私はバターを塗ったパンを一口かじってから、少し考える。
「悲しくないと言えば、嘘になるかもしれないわ」
「えっ」
「私は恋愛に夢を見ていないだけで、感情がないわけではないもの。でもね」
パンを置き、私は肩をすくめた。
「嘘の優しさを与えられて、後から踏みつけられるよりはずっといいでしょう?」
ミラははっとしたように息を呑んだ。
そう。
私が白い結婚を歓迎できる理由は、前世の社畜根性だけではない。
半年前まで、私は第二王子レオンハルト殿下の婚約者だった。
アシュクロフト伯爵家の長女として、幼い頃から王太子妃教育に準じた厳しい教育を受け、礼儀作法、会計、法学、外国語、外交文書作成まで叩き込まれた。
それは王家のため、ひいては婚約者のためだと信じていた。
レオンハルト殿下は、最初から私を愛してはいなかったと思う。
けれど少なくとも、人前では微笑んだ。手を取り、褒め言葉を与え、ときには私に王宮の文書整理を任せた。
私の魔法が契約や文書の誤りを見抜くことを知ると、殿下は「実に便利だ」と笑った。
便利。
あれは、私に向ける言葉ではなかった。
転機は、豊穣の祝福を持つと噂されたセシリア・ベルヴェイン子爵令嬢が王宮に出入りするようになってからだ。
彼女は明るくて華やかで、誰にでも愛想がよく、奇跡の花を咲かせるという目に見える力まで持っていた。
無表情でインク臭い私とは正反対だった。
ある夜会で、レオンハルト殿下は大勢の貴族を前にして言った。
『セラフィーナ、お前は冷たすぎる。妃に必要なのは正しさではなく、民に寄り添う温かさだ』
『……それは、婚約解消の理由でしょうか』
『そうだ。私はセシリアを選ぶ』
私は泣かなかった。
泣く前に、前世の記憶が蘇ったからだ。
ああ、これは駄目なやつだ、とそのとき妙に冷静に理解した。
愛していると囁きながら仕事だけ押しつける上司。責任だけ重くして、評価はよそへ流す組織。私が前世で骨まで削られた構図と、あまりにもよく似ていた。
だから私は、婚約解消の書面を一行も修正せずに受け取った。
実家に戻ったあとも、父や継母が「お前が愛想よくしていれば」「妹のリディアならうまくやれた」と責め立てるのを、心のどこか遠い場所で聞いていた。
そしてほどなくして、王家からグレイフォード公爵家との縁談が持ち込まれた。
北方防衛の英雄であるルシアン公爵には、妻を迎えろという周囲の圧が強い。
一方で私には、婚約破棄された令嬢という不名誉を一刻も早く隠したい王家と実家の都合がある。
つまり私は、厄介払いとして送り込まれたのだ。
でも、私はそれでよかった。
無駄に甘い言葉を囁かれるより、最初から線を引いてくれるほうがよほど信頼できる。
その線の中で働けるなら、なおさらだ。
「奥様……」
ミラが少しだけ目を潤ませた。
「あなた、思っていたよりずっと苦労してきたんですね」
「まあ、それなりに」
「おかわいそうです」
「そうかしら。いまは結構、満足しているわよ」
「満足」
「ふかふかの寝具、温かい朝食、きちんと払われる対価、そして大量の未処理案件」
「最後だけちょっと分かりません」
ミラが真顔で首を傾げたので、私は思わず笑ってしまった。
こういう気安い会話ができるのも、悪くない。
食後、約束通り用意された作業机を見に書庫へ向かうと、私は思わず足を止めた。
昨日、床に積まれていた木箱が綺麗に運び込まれている。
窓際には新しい机。引き出しつき。椅子の座面には厚手のクッションまで敷かれていた。
しかも鍵付きの書棚がひとつ、丸ごと私専用になっている。
「仕事が早い……!」
「そこに感動なさる奥様、本当に変わっていますね」
ミラの呆れた声を聞き流し、私は箱を開ける。
帳簿、契約書、納品書、請求書、保管記録、家令報告――たまらない。
紙の束に指を通すたび、赤い綻びが浮かび上がる。
と、そのとき。
ある一冊の薄い台帳に、他より濃い黒ずみが見えた。
私はゆっくり表紙をめくる。
公爵邸の使用人名簿だ。
勤務年数、配置、給与、推薦人。
赤い綻びは、三人の名前に集中している。
倉庫番補佐ラド、会計補助ベッカー、外部購買係ダミアン。
「……なるほど」
「どうしました?」
「書類だけではなかったみたい。人もつながっている」
ページをめくりながら、私は昨夜見つけた仕入れ帳簿の改竄を思い出した。
石炭、薬草、倉庫補修費。全部、担当部署が違うように見えて、最終承認印の流れは不自然なほど似ている。
この三人は、ただの末端ではない。
誰かの手足だ。
しかも使用人名簿には、過去に解雇されたはずの倉庫係の名が、消された形跡と共に残っていた。
事故死、と注記されている。
でも余白が黒い。ひどく嫌な色だ。
私は台帳を閉じ、背筋を伸ばした。
公爵家の未処理案件は、想像以上に根が深い。
「ミラ。少し聞きたいのだけれど」
「はい」
「この家で、一番長く勤めている執事は誰?」
「アルフレッド執事長です。でも今は病で休みがちで、実務は家令のグレシャム様が」
「グレシャム」
「はい。奥様、もしかして」
「ええ。たぶん、この家は人の入れ替わり方が不自然すぎるわ」
そう言ったところで、書庫の扉が静かに開いた。
振り返ると、そこにはルシアン公爵が立っていた。
朝の会議帰りらしく軍服姿のまま、相変わらず目の下に隈をこさえている。
「もう始めていたのか」
「はい。少しだけ」
「少しでその顔か」
「面白くなってきたので」
「……君の面白いは信用ならんな」
低く言いながらも、公爵は私の机の上に視線を落とした。
開いた名簿、付箋だらけの帳簿、私が走り書きした相関図。
その視線がぴたりとある箇所で止まる。
「これは」
「昨夜見つけた改竄分の流れです。仕入れ、水増し、納期偽装、使用人配置の変更。全部、家令グレシャムの承認印につながっています」
「一晩でここまで?」
「睡眠時間は削っていません」
「そういう意味ではない」
私は羽根ペンを置き、公爵に向き直った。
「公爵様。確認ですが、この件、本格的に調べても?」
「好きにしろ、と昨夜言った」
「では本格的に好きにします」
するとルシアン公爵は、一瞬だけ黙り込み、やがて私の机の端に指先を置いた。
「いいだろう。だが単独で動くな」
「命令ですか」
「契約相手への指示だ」
「従います」
彼はわずかに頷き、それからぽつりと言った。
「……君が来てから、この書庫の空気が少し静かだ」
「静か?」
「ああ。いつもより頭痛が薄い」
私は思わず目を瞬かせた。
昨夜も少し気になっていた。書庫で契約書の綻びを読み、整理を進めているときだけ、ルシアン公爵の声がわずかに柔らかかったのだ。
偶然ではないのかもしれない。
「それ、気のせいではないかもしれません」
「どういう意味だ」
「公爵様の体調不良。書類と関係がありそうです」
そう告げた瞬間、彼の眼差しが鋭く細められた。
私は確信する。
この家を蝕んでいるのは、不正だけじゃない。
もっと古く、もっと厄介な何かがある。




