愛することはないそうですが、雇用条件は悪くありません
「セラフィーナ。君を愛することはない」
新婚初夜、真っ先にそう告げられた私は、泣き崩れるどころか心の中で拍手していた。
目の前にいるのは、エルフェルム王国北方を治めるグレイフォード公爵、ルシアン・グレイフォード。
雪より淡い銀髪に、夜色の瞳。整いすぎた顔立ちは息を呑むほど美しいのに、その視線だけは冬の刃のように冷たい。
王都では氷の公爵と呼ばれ、戦場では無敗。社交界では近寄りがたく、ついた異名は「微笑まない英雄」。
そんな人が、私の夫になった。
もっとも、愛のある結婚ではない。
半年前まで第二王子レオンハルト殿下の婚約者だった私が婚約破棄され、その醜聞を早急に覆い隠したい王家と、結婚しろという圧力を鬱陶しがっていた公爵家の思惑が一致しただけの話だ。
「この結婚は、周囲を黙らせるための契約に過ぎない」
ルシアン公爵は机上に置かれた一枚の羊皮紙を指先で叩いた。
「君には公爵夫人として必要な衣食住と体面を保証する。夜会への出席は最低限でいい。私生活には干渉しない。その代わり、私の行動にも口を出すな。私の妻として外聞を損ねないこと。それだけだ」
私は胸の前で手を組み、しおらしく頷くふりをした。
内心は、歓喜の鐘が鳴り響いている。
干渉なし。最低限の社交。衣食住保証。
しかも相手は、愛を要求してこない。
最高では?
前世の私は、都内の監査法人で働くただの会社員だった。
終電は日常、始発はたまの贅沢。三徹の朝にコンビニのコーヒーを飲みながら、椅子で三十分眠れれば幸運。そんな生活を続けた結果、私は二十七歳であっさり過労死した。
だから今世での私の目標はただひとつ。
健康的に働き、健康的に休むこと。
愛だの情熱だのは、その次でいい。いいえ、なくてもいい。
「返事は」
「承知いたしました、公爵様」
私は顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「その条件、むしろありがたいです」
ルシアン公爵が、ほんのわずかに目を見開く。
どうやら泣くと思っていたらしい。
「……ありがたい?」
「はい。境界が明確な契約は、非常に助かります」
「境界」
「はい。役割と権限と責任の所在が明示されている職場は、良い職場です」
言い切った瞬間、自分でもしまったと思った。
職場と言ってしまった。
結婚を職場扱いするのはいかがなものか、と反省しかけたけれど、ルシアン公爵はなぜか少しだけ眉を寄せただけだった。
「君は、変わっているな」
「そうかもしれません」
「泣きもしない」
「泣いてほしいのですか?」
「いや」
「では問題ありませんね」
短い沈黙。
蝋燭の火が揺れ、執務室の壁一面を埋める本棚に影を落とす。
ルシアン公爵の執務室は、見事なまでに整理されていた。書棚に収まる法典、軍記録、地図。机の右に戦況報告、左に決裁書類。几帳面な人なのだろう。
けれど、視線をずらした先――応接用長椅子の脇、床に積まれた木箱の山だけが異様だった。
蓋の閉まらない箱からは、古い帳簿や未処理らしい書類が溢れている。
私は、つい目を奪われた。
その瞬間、視界の端で淡く赤い線がちらつく。
紙の端に、目に見えないはずの綻びが浮かんだのだ。
これが私の持つ魔法――余白視。
契約書、帳簿、誓約文、申請書。文字で形作られた意思の境目が、私には色として見える。
嘘の筆跡、改竄された行、隠された条項、破られた約束。そうしたものは、紙の余白から滲み出る赤や黒のひびとして現れる。
派手さも華もない、地味な魔法。
けれど私は、この地味さを愛していた。
箱の中の書類は、何枚も何枚も、赤黒く傷んで見えた。
「公爵様」
「何だ」
「失礼ですが、あちらの書類は」
「……放置されているものだ」
「なぜです?」
「人手が足りない。信用できる人間も足りない」
「見ても?」
「好きにしろ。どうせ君には関係のないものだ」
関係がない。
普通の花嫁なら、そう言われてむっとするのだろう。
けれど私は違う。
私は静かに一歩前へ進み、木箱の一番上に積まれた帳簿を手に取った。
羊皮紙の端に指が触れた瞬間、赤いひびがぱっと浮かぶ。
帳簿の後ろから、別筆跡の付箋。しかも消された数字の跡まで見えた。
私はページをめくり、ほとんど反射で口を開いていた。
「冬季用石炭の仕入れ、三割ほど水増しされていますね」
「何?」
「それからこちら。倉庫の補修費が二重計上です。ああ、医薬品の納入日も書き換えられています。領都に届いたはずの薬草、実際には届いていません」
「……一目で分かるものか?」
「いいえ。二十秒ほど見れば」
しん、と空気が止まる。
ルシアン公爵の視線が、先ほどまでとは別種の鋭さを帯びた。
「根拠は」
「この帳簿の十二頁と十三頁の間に、抜き取られた紙の痕があります。本来なら倉庫別の納品明細が続くはずです。それから、こちらの数字。上から書き直した形跡があります。筆圧も違う」
「そんなもの、普通は見抜けん」
「私は普通ではありませんので」
少しだけ、得意になってしまった。
実家ではこの魔法を「いかにも女向きな細かい芸」と笑われてきた。王宮では便利な秘書扱いしかされなかった。
でも今、ルシアン公爵の目には初めて、私を道具ではなく能力として測る光が宿っている。
「……君は、書類仕事が好きなのか」
「大好きです」
即答すると、さすがの公爵様も言葉を失った顔をした。
「特に整っていない書類を整える作業が好きです。混乱している業務を、責任ごと切り分けて正しい場所に戻すのも」
「酔狂だな」
「よく言われます」
ルシアン公爵は私と帳簿、それから床の箱の山を見比べた。
ややあって、観念したように息を吐く。
「……では、条件を追加しよう」
「はい?」
「その書類の山を、君に預ける」
「本当ですか?」
「そんなに嬉しそうな顔をするな」
「していましたか?」
「している」
たぶん、していた。
前世で言うなら、粉飾決算の疑いがある案件を丸ごと任される瞬間に近い。しかも徹夜前提ではなく、食事と寝床つきだ。
夢みたいだ。
「ただし、勝手な処罰や外部への情報漏洩は禁ずる。発見した不正は私にのみ報告しろ」
「承知しました」
「報酬も出そう」
「報酬まで?」
「君は公爵夫人だが、それとは別に働くのだろう。労働には対価が必要だ」
私はそこで、思わず夫の顔を見つめてしまった。
労働には対価が必要。
前世で何度も聞きたかった言葉だ。
「……ありがとうございます」
今度の礼は、本心からだった。
「礼を言われるようなことではない」
「いえ。とても大事なことです」
ルシアン公爵は少しだけ視線を逸らした。
それから、机上の羊皮紙をこちらへ滑らせる。
「ならば君の方からも条件があるだろう。言ってみろ」
「よろしいのですか?」
「ああ」
「では三点」
私は指を折った。
「一つ、私専用の作業机と鍵のかかる書庫の一角をください。二つ、就業時間外の緊急呼び出しは、命に関わる場合を除きご遠慮ください。三つ、睡眠時間を削るような無茶はしないと約束してください」
「……三つ目は、君への条件か?」
「いいえ、公爵様への条件です」
ルシアン公爵が怪訝そうに眉を上げる。
私は控えめに微笑んだ。
「目の下の隈がひどすぎます。責任者が倒れる職場は、例外なく崩壊します」
「君は初対面の夫にそういうことを言うのか」
「契約相手には、必要なことを言います」
数拍の沈黙。
やがて彼は、小さく、本当に小さく笑った気がした。
笑ったというより、口元の氷がひび割れた、くらいの変化だったけれど。
「いいだろう。机は明朝用意させる。鍵付き書庫もだ。睡眠時間の件は……善処する」
「善処、ですか」
「これ以上譲歩を迫るな」
「では一旦それで」
私は羊皮紙を受け取り、契約内容を確認した。
余白に赤いひびはない。少なくとも、目の前の男はこの場で私を騙すつもりはないらしい。
羽根ペンに魔力を流し、署名する。
セラフィーナ・アシュクロフト。
その下に、ルシアン・グレイフォードの名前が並ぶ。
淡い銀光が契約書を走った。
これで私は、グレイフォード公爵夫人。
そして今夜から、氷の公爵家で一番怪しい書類の山の担当者である。
「部屋へ案内を」
公爵様はベルを鳴らそうとして、私が帳簿を抱え込んでいることに気づいた。
「……何をしている」
「一冊だけ、寝る前に確認しようかと」
「今からか?」
「はい」
「長旅と婚礼のあとだぞ」
「興奮して眠れそうにないので」
「普通は逆だ」
至極もっともな指摘だった。
けれど、二重計上に納品日の改竄。これは序の口だ。箱の中には、もっと面白いものが眠っているに違いない。
私は高鳴る胸を押さえきれず、礼儀正しく一礼した。
「公爵様」
「何だ」
「この結婚、私にとっては大当たりかもしれません」
ルシアン公爵はしばらく無言で私を見ていたが、やがて本気で理解できないものを見るような目をして、ただ一言こう返した。
「……そうか」
その夜、私は新しい部屋に通されてもすぐには休まなかった。
机に帳簿を開き、ランプを灯す。
ページをめくるたび、赤い綻びが増えていく。
ああ、素晴らしい。
この公爵家、想像以上に立て直しがいがある。
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