ミラ視点 局長夫妻の終業ベル
わたしは最近、本気で思っている。
北方監理局でもっとも難しい業務は、契約照合でも公開閲覧でもない。
局長夫妻を定時で帰らせることだ。
まず、うちの局長――セラフィーナ様は、仕事が好きすぎる。
好きすぎて、朝一番に未処理箱を見ると目がきらきらする。普通の令嬢が宝石箱を見たときみたいな顔で帳簿を見る人は、わたしの知る限りこの世に一人しかいない。
しかもご本人は無自覚だ。
「局長、本日は終業です」
「この一枚だけ」
「昨日も同じことを言ってました」
「今日は本当に一枚だけ」
「その一枚の下に三枚あります」
「よく見てるわね」
「秘書ですから」
そして厄介なのが、旦那様――ルシアン公爵様である。
この方はこの方で、奥様を休ませようとする時だけ異様に判断が早い。
会議が長引こうが領軍の報告が積まれようが、「局長は退勤だ」の一言で全部ひっくり返すことがある。
最初は冷たい人だと思っていたけれど、今はもう別の意味で厄介だ。
「ミラ」
「はい」
「今日の局長の残務は」
「比較表一件、村契約二件、でも明朝で間に合います」
「よし」
「旦那様、本気ですね」
「当然だ」
こうしてわたしと旦那様とハンナ副局長で包囲網を敷き、ようやく局長を椅子から引きはがす。
それでも途中で「思いついたから」と言ってメモ帳を取り出そうとするので油断ならない。
けれど最近、ちょっと変わったこともある。
前は旦那様が迎えに来ると、局長は困った顔ばかりしていた。
もちろん今でも「過保護です」とか「監視では?」とか言うのだけれど、そのあと必ずちょっとだけ嬉しそうなのだ。
たぶんご本人は気づいていない。
でも長年お世話しているわたしには分かる。
旦那様の方も変わった。
前は用事がある時しか監理局へ来なかったのに、今は一日一回は顔を出す。
理由はだいたい「昼食確認」「外套を持ってきた」「風が強いから窓を閉めろ」あたりで、要するに全部局長に会いに来ている。
なのに本人気づいてないふりをしてるから面白い。
今日もそうだった。
終業の鐘が鳴る少し前、旦那様が湯気の立つ茶を持って現れたので、わたしは内心でガッツポーズした。
これで勝てる。
「局長」
ハンナ副局長が低い声で言う。
「本日の決裁は以上です」
「でもこの王都便の」
「明日」
ヨナスさんも追い打ち。
「閲覧室の棚割り相談が」
「明日で大丈夫です」
そして旦那様がとどめを刺す。
「帰るぞ」
「横暴です」
「愛だ」
「便利な言葉ですね」
「知っている」
この流れ、最近の定番である。
局長はぶつぶつ言いながらも最終的には外套を受け取り、わたしたちに「では明日」と言って帰っていく。
その背中を見送りながら、わたしは毎回ちょっとだけ胸があたたかくなる。
だって最初の頃を思い出すからだ。
王都邸で初めて奥様にお仕えしたとき、奥様はとても落ち着いていた。
でも、その落ち着きは諦めにも似ていた。
泣きもせず怒りもせず、ただ「良い職場ですね」と言って書庫へ向かった。
強い方だと思ったけれど、同時に、誰にも期待しない方なのだとも感じた。
旦那様もあの頃はひどかった。
目の下に隈を作って、いつもぴりぴりして、眠れていなくて、誰も近寄れない。
まるで自分一人で全部背負って、全部終わらせるつもりみたいだった。
そんな二人が今では、終業時間を巡って言い合いをしている。
なんだかすごいことだと思う。
「ミラ」
ハンナ副局長が横で呟く。
「今日も守ったな」
「はい!」
「何を」
「局長夫妻の生活です」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃありません。定時退勤は平和なんです」
ハンナ副局長は一瞬だけ黙って、それから小さく笑った。
「……それはそうかもしれん」
執務室の灯りを消し、書類箱に布をかける。
明日また、たくさんの仕事が来るだろう。
でも今日は終わりだ。
局長が教えてくれた。
紙は怖くない。ちゃんと読めばいい。
旦那様が証明してくれた。
守ることは、一人で背負うことじゃない。
そしてわたしは知っている。
終業ベルが鳴ったあと、一緒に帰る人がいるのはとても大事だ。
だから明日も、わたしは全力で二人を帰らせる。
秘書として。当然の務めである。




